水めぐりの旅
大阪みずの景
目次
<阿倍王子神社の献湯神事> 2012.1.15
<四天王寺のどやどや> 2012.1.14
<住吉大社・若宮八幡宮例祭の湯立神事> 2012.1.12
<御霊神社の船渡御> 2011.7.15
<新淀川・西念寺の流し潅頂> 2009.8.23
<杭全神社の御田植神事> 2009.4.13
<野里住吉神社の一夜官女祭> 2008.2.20
<難波八阪神社の綱曳神事> 2007.1.21
<住吉大社の「御田植神事」と「若水の儀」> 2002.6.13、2007.1.1
<生根(いくね)神社のだいがく祭> 2004.7.24−25
<難波八阪神社の船渡御> 2004.7.12
<堂島の「お水汲み祭り」> 2004.3.19
<新淀川・正蓮寺の川施餓鬼> 2003.8.26
<天神祭・鉾流神事> 2003.7.24
<写真展『大阪みずの景』 2003.3.18-22
水に関するワークショップin大阪で開催>
<大阪城灯りの景> 2002.10.21
<
<水都・大阪淀川めぐり> 2001.7.12
<阿倍王子神社の献湯神事> 2012.1.15
阿倍王子神社は仁徳天皇の創建とされ、弘法大師が疫難退散(えきなんたいさん)の祈祷を行ったという。古代には奈良の桜井の豪族・安倍氏が当地に移住し、その氏寺の「阿部寺」があった。平安時代に四天王寺に併合された。熊野信仰が盛んになり、その街道沿いに「熊野九十九王子(くまのきゅうじゅうきゅうおうじ)」と呼ばれた王子社の一つとなった。今では大阪府下で旧地現存する唯一の王子社となっている。
毎月一日と十五日の月次祭や例祭に「献湯神事(けんとうしんじ)」が行われている。早朝10時になると、参拝者が取り囲んで神事が始まる。巫女が湯釜を塩で清め、米、神酒を入れた。その湯を湯櫃(ゆひつ)に入れて神前に供えられた。湯釜から笹で湯気や水しぶきで周囲は祓い清められた。神前で式神楽を奏された後、参拝者にはハンカチなどに湯水や笹が授けられた。
境内には水神を祭った水(すい)神社などがある。熊野街道沿いには飛び地境内社の安倍晴明神社がある。平安時代の陰陽家で天文博士の安倍晴明公を祭神として、当地がその誕生の地とされ、「産湯の井戸」の碑がある。
境内の西側を通る熊野街道は『日本書紀』の仁徳天皇五十八年五月条に「荒陵松林之南道(こうりょうしょうりんのなんどう)」と記される古道だ。荒陵(こうりょう)とは「茶臼山」のこととされている。海岸線の後退によって室町時代に住吉街道が発達するまで、紀州熊野に至る本街道として賑わったという。
<四天王寺のどやどや> 2012.1.14
毎年1月14日に四天王寺・六時礼讃堂で「どやどや」が行われる。元旦から始まる修正会の結願法要で、五穀豊穣などを祈願するもので、魔よけの札をもらうために地元の農家が境内に「どやどや」と集まったのが起源とされている。
午後2時30分から幼稚園児や中高生ら順次3グループに分かれて行われた。堂前で祓い清める水が撒かれると、ふんどしで紅白の鉢巻き姿の中高生らの熱気で湯気が沸き立った。堂内では紅白に分かれて舞い落ちる札を取ろうと、手を伸ばしながら体を激しくぶつけ合った。
四天王寺は推古天皇元年(593)年に創建された。『日本書紀』には、物部守屋と蘇我馬子の合戦で、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫って祈願し、その勝利で建立されたという。
<住吉大社・若宮八幡宮例祭の湯立神事> 2012.1.12
毎年1月12日に住吉大社の若宮八幡宮で湯立神事が行われている。五穀の豊作を占うとともに、穀物の豊穣を祈願している。
神前に4つの大釜が並べられた。笛と太鼓の神楽に合わせて巫女が舞い、各釜を塩で清め、米や酒が入れられた。その湯を木桶に入れて神前に供えられた。御幣を振り、笹で煮えたぎる釜湯を撒きあげる湯気が沸き立つ。
<御霊神社の船渡御> 2011.7.15
御堂筋から少し西側に入ったところに御霊神社(大阪市中央区)がある。安永9(1780)年に始まった船渡御は明治維新まで90年近く続いた神事で、江戸時代には甲冑(かっちゅう)姿の武士ら約500人が20艘の船が南堀江の行宮まで渡御する夏の風物詩の一つとされたそうだ。その船渡御が15日、約140年ぶりに復活し、阪神大震災を機に途絶えていた武者行列も行われた。
武士の守護神を祀っており、古くから商人だけでなく武士の信仰が厚かった。豊臣時代には多くの武将が戦勝祈願したそうだ。15時から拝殿で御祓いした後、神職を先頭に武者姿などに扮(ふん)した約100人の一行が、御堂筋を練り歩き、淀屋橋港から三艘の船に分かれて乗り込んだ。土佐堀川、堂島川、木津川、道頓堀川、東横堀川と2時間ほどの船渡御を繰り広げた。
<新淀川・西念寺の流潅頂・川施餓鬼> 2009.8.23
阪神なんば線伝法駅から西へ歩いて10分ぐらいの新淀川の左岸に西念寺(此花区伝法5丁目)がある。境内のお堂の中には木製の井形の中に水甕がある。かつては湧出していたのだろうか。中世には摂津伝法の船寺として信仰を集めた。かつては日本三大船祭の一つとされ、本座船と屋形船などの数百隻の船が伝法川から淀川を下り、大阪湾に出て卒塔婆を流し、供養・祈願したという。その伝統を受け継いだ「流潅頂(ながれかんじょう)・川施餓鬼」がお盆に行われている。
午後二時過ぎに新淀川の堤防へ向けて僧侶らのお練りが出発した。新淀川堤防上で僧侶らが供養・祈願し、供えられたウナギが放流された。
この近くにある船溜まりのそばに「伝法川跡」がある。昔は鴉宮の敷地が島で伝法川の終着で、かつては伝法地区には造り酒屋が多くあり、その酒を江戸まで運ぶ樽廻船が頻繁に出入りする大阪の水運の玄関口となっていた。
<杭全神社の御田植神事> 2009.4.13
中世に自治都市として発展した「平野郷」にある杭全神社で毎年4月13日に「御田植神事」が行われる。都市化で田畑はなくなり、存続の危機にあった神事をかつての平野郷を支配した「七名家」や保存会の尽力で継承されてきた。現在は大阪府無形民俗文化財に指定されている。全国的に見られる御田植祭には民俗芸能に近いものが多いのは、平安時代に田楽の伴奏で田植えをした名残であるといわれている。ここでは猿楽の形で演者と観客との掛け声をしながら進んでいく。特長的なことは「次郎坊」と呼ばれる人形が放尿する所作があることだ。
神事は午後2時から始まる。「田」に見立てられた拝殿に「観客」が座ると、能面の「翁」や「牛」が登場した。田ならしや水口つくり、籾種まきなどの農耕所作をし、その合間に「観客」の掛け声が入る。そして「次郎坊」を背負った男と「早乙女」が登場した。「翁」が「次郎坊」に飯を与えて、盥に放尿させる所作は厳かな神事に中にあってユーモラスだ。辛い農作業の中の少しの安息を表しているようだ。また食事して糞尿を出す自然現象を所作することで自然の循環を示して五穀豊穣を祈願しているのかもしれない。
<野里住吉神社の一夜官女祭> 2008.2.20
淀川河口部右岸に鎮座する野里住吉神社(
「白矢」の打ち込まれた家の娘を唐櫃に入れて神社境内に放置して「人身供養」として捧げた。それから7年目、この地を訪れた一人の武士がこれに怒って、自ら身代わりになった。翌朝、唐櫃の中は空で武士の姿もなく、周辺は血の海だった。血の跡が隣村まで辿ったところ、そこには見たこともない大きな狒狒(ヒヒ)が絶命していた。ヒヒではなく大蛇だった(暴れ川だった中津川を大蛇に見立てている)との説もある。以来、「人身御供」になった7人の娘(官女)を偲んで祭事が行われるようになった、ということだ。
午後2時、神職らお神酒と牛蒡の煮付け(牛蒡は匂いが強いので、魔除けになるそうだ)の「御膳」と唐櫃を携えた一行が神社から「当矢」の家に向かって出発した。「当矢」の家内で「官女」を交えた「修祓えと決別の盃」の式が行われた後、神社へ戻る。その巡行は着物や冠で着飾られた「官女」(今年は5人)らで華やかになる。それぞれ後見人と士に扮した母親と父親が付き添い、「一夜官女」の前には一つずつの桶が付く。その中には鯉・鮒・鯰・餅・酒・小豆・干し柿・豆腐・大根・菜種菜龍の首を表した紅白の細工物(住吉の御祭神の海神に通じる龍神の縁起物で祭りの後、官女の魔除けになるそうだ)が盛られている。桶の縁には悪疫を阻止する意があるは紅白の棒が立てられている。神社に戻ると本殿の中で神事が行われ、5時前には一連の祭事が終了する。「人身御供」の由来を知れば、華やかな巡行の中にも哀切さが感じられてくる。なお「当矢」の家内や本殿内の神事を見学するのは難しい。
「官女」を運んだ「龍の池」は次第に埋まり、今は本殿裏側に「乙女塚」として偲んでいる。昭和47年には大阪府指定の「無形民俗文化財」になった。
<難波八阪神社の綱曳神事> 2007.1.21
早朝から境内に集まった氏子らが、市販の縄を編み上げた細い綱をさらに三つ編みして大きな綱を二本作った。一本は「八岐の大蛇(やまたのおろち)」の頭から足の胴体部に、もう一本は「男根」で胴体部の綱に絡ませた。作り方も大きさも精緻に手が込んでいる。
完成するとその年(2007年は北北西)の恵方を向いて、氏子らが綱を引き合った。台車に乗せて境外を一周巡行した後、境内の巨大な獅子頭を模った「獅子舞台」(高さ12m、幅11m、奥行10m)にとぐろを巻いて頭を立てた状態で据え置かれた。平成13年に
<住吉大社の「御田植神事」と「若水の儀」> 2002.6.13、2007.1.1
海と芸能の神を祀る住吉大社で毎年6月13日に「御田植神事」が行われる。広い境内の一角にある30反の「神田(御供田)」を舞台に神事が行われる。当日雨が降れば、その年の水に困ることはないという。
午後1時より本殿で神事が行われた。2時から「神田」での神事が始まった。牛が代掻きし、神田中央の舞台で八乙女による田舞が行われた。菖蒲と綿花の造花(長門より綿花が献上されたことに由来)の花笠をかぶった植女から苗を替植女に渡して、田男とともに植えた。その間、「神田」の周囲で風流武者行事や紅白に分かれた棒打合戦、住吉踊りが行われた。
都市化で田畑は市内の一部の区に残るだけだ。地球規模の気候変動や水不足による食料危機が叫ばれる中、食料の大消費地である
御田植神事 2002.6.13 若水の儀 2007.1.1
元旦5時から「若水の儀」が始まる。神職者一行が本殿の境内にある「神井」から深さ30cm足らずの竹筒6本に「御神水」を汲み入れていった。住吉大社は関西で最も多くの初詣客で賑わうが、この時間になると参拝者は少ない。その中を厳かな雰囲気を漂わせながら境内にある4つの拝殿の神前に順次供えていった。若水というのは元旦に最初に汲まれた水のことで、今年一年の「お清め」となる。
<生根(いくね)神社のだいがく祭> 2004.7.24−25
25日の本宮の午後5時過ぎ、子供らに担がれた子供だいがくが境内前で奉納された。続いて女の子が輪になって「だいがく踊り」を奉納した。だいがくの大太鼓に合わせて腕輪の鈴が鳴り響いた。年配の女性が伝統の継承のために、指導しながら一緒に踊っていた。
日も暮れて高さ20mあるという台額(だいがく)が、だいがく音頭に合わせて若者らが交代で大太鼓を打ちながら勇壮に回った。「ヨイサジャー」という音頭でだいがくが上下に大きく揺すられると鈴が鳴り響いた。
台額(だいがく)というのは台上の心棒に六十余州を表した数十個の提灯をぶら下げ、その上端には神楽鈴のついた「だし」と鈴のついた傘がある。それをだいがく音頭に合わせて大太鼓を打ちながら心棒を回転させる。その昔、農民らの雨乞い祈願が成就して喜び合ったのが祭りの始まりとされている。以来、五穀豊穣や無病息災などを祈願して勇壮に行われてきた。
戦災から唯一残っただいがくは大阪府の有形文化財に指定されている。
<難波八阪神社の船渡御> 2004.7.12
船渡御
まだ明るい夕方6時から道頓堀川の船渡御が始まった。難波リバープレイス(なんばHatch)前にできた難波船着場から下流の日吉橋をUターンして上流の日本橋の間を行き交う。日もようやく暮れて道頓堀界隈のネオンが水面に輝く中、派手な装飾の船や太鼓などのお囃子船が渡御していく。橋上の観客とともに「大阪打ち」で祭りを祝い合う。
道頓堀川は現在、戎橋付近で川辺をテラス化する工事が行われている。完成すればカフェを楽しみながら見ることもできそうだ。また大雨で溢れ出した未処理の下水が水質の悪化の要因として、一旦地下に貯める工事が行われている。
<堂島の「お水汲み祭り」> 2004.3.19
ビルに囲まれた谷間に創出された水辺の空間の一角に堂島薬師堂が鎮座している。隣には芸事の女神である「水かけ弁天さま」が祀られている。聖徳太子が四天王寺を創建したとき、現在の淀川砂州とみられる難波潟の八十島の一島に遣随使らの水路の目印に建立したものを、奈良時代に行基が薬師堂として完成させたという。「薬師堂のある島」ということで「堂島」といわれるようになったということだ。以来、「なにわの守護神」として参拝者で賑わい、親しまれてきた。1999年に完成した堂島アバンザの北東角に移設され、地元の奉賛会が管理し、毎月1回薬師寺の僧侶らによって法要が行われている。かつては薬師堂にあった井戸水を汲んで、薬師如来に供えていたということだ。
水かけ弁天さま 薬師寺僧侶らによる水汲み
夕方から薬師堂の守り神の一つである龍が北新地を巡行した。日も暮れ肌寒くなった18時過ぎ、堂島アバンサ前の会場で祭りが始まった。中国、カンボジア、インド、韓国、マレーシア、モンゴル、ミャンマー、パキスタン、ロシアのシルクロードゆかりの国からの留学生が「世界の水の使者」としてお国の水を献水した。その水と奈良薬師寺金堂に1300年にわたり滾々と湧き出る井戸水を薬師如来に供えた「お香水」と、この薬師堂の上水とを合わせた水が今回の「堂島お薬師さんの水」となっている。ちなみにこの水は飲用ではない。引き続いて神事と奈良薬師寺の僧侶らによる読経が行われた。
今回初めて行われたこの祭りは、水都大阪と北新地の商売繁盛や家内安全などの祈願と水への感謝を込めて企画された。この水を汲み入れる竹筒護符は三万円から千円まである。その中に奈良の薬師寺の僧侶らが「堂島お薬師さんの水」を注いでくれる。資力に応じてということで、お払いやお守りの値段と比べればそんなものだろう。
<新淀川・正蓮寺の川施餓鬼> 2003.8.26
川施餓鬼 2003.8.26
14時ごろから正蓮寺で法要された後、近くの舟だまりへ向かった。僧侶や檀家の子供らが幟の立った三艘の舟に乗り込み、水門から新淀川に出た。太鼓を鳴らしながら伝法大橋から下流を一回りして戻った。
正蓮寺川は1759(宝暦9)年、中津川の疎通を図るために新たに開削されたとする説や、自然の流路を改修したものとする説もある。その汚濁が著しくなって昭和42年ごろから新淀川で営まれるようになったということだ。
<天神祭・鉾流神事> 2003.7.24
鉾流神事 2003.7.24
天神祭の幕開けを告げる鉾流神事が24日早朝、堂島川で営まれた。神主と童子らが乗り込んだ舟が川の中央でスッーと鉾を流すと、鉾はユラユラと流れていった。
大阪天満宮発行のパンフレットによれば、「鉾流神事は、鉾に託して「穢れ」を祓うとともに、年に一度、神様が氏地を巡見されるという意味合いも持っています」ということだ。もともとは鉾が流れ着いた先が御旅所となる神事だった。江戸時代にその常設化で途絶えた神事が、昭和5年に鉾流橋の架橋に合わせて復活した。
<写真展『大阪みずの景』 2003年3月18日-22日
水に関するワークショップin大阪で開催>
約六千年前の大阪は上町台地をのぞいて「河内湾」という海でした。淀川や大和川がもたらした土砂で次第に平野となりました。戦後の急速な埋め立てとともに川が道路になり、豊臣時代に形成されたという「水運の都」の面影は失われてきました。最近ようやく観光のためにその再生が求められています。
人はどんなとき「水」を意識するのでしょう。のどが渇いたとき。料理、農作業など水を必要とするとき。その水を得るのが困難なとき。洪水などの危機に瀕しているときなどでしょうか。しかし水道の蛇口から溢れるように水が流れ出る、現在の日本の「豊かな」生活で日常的に「水」を意識することは少なくなっています。ところが意識すればするほど不安が高まるのは何なのでしょう。水道水源の汚染、ダムによる森林の破壊などなど。少し「流れ」が変われば深刻な事態になりかねません。
「水の惑星」である地球にあって、水の循環に「国境」はありません。グローバル化した世界で至る所で様々な水問題が顕在化しています。政治、経済、文化に多くの面でリンクし合って、その解決策は困難でしょう。まず身近な水から得られる知恵がそのヒントになるような気がします。
1 2
3
4 5
6 7
8 9
10
1 「循環」 法善寺の水掛不動
ヒートアイランド化した大阪で数年ぶりに氷点下になった。その朝、苔むした水掛不動に氷柱ができた。極地では氷が溶け出して、海面上昇が心配されている。氷が水に、水が水蒸気になる循環が変化している。
2 「滝」 清水寺の玉出の滝
大阪唯一の滝といわれ、3mの崖から三条の水が流れ落ちている。寺の縁起では、四天王寺の金堂下の青竜池から流れ出ているという。この水に打たれて修行する人の姿も見られ、厳粛さが漂う。
3 「農」 住吉大社の御田植神事
都市化で田畑は一部の区に残るのみとなった。地球規模の気候変動や水不足による食料危機が叫ばれている。食料の大消費地である
4 「海」 WTC展望台から
戦後の埋め立ては海岸線を急速に後退させた。今も眼下の沖合に新人工島の埋め立てが進んでいる。内湾化した大阪湾奥部の水質汚濁は著しい。「生命の源」が危機に瀕している。
5 「水辺」 淀川の中津干潟
6 「再生」 道頓堀川の戎橋
大阪のシンボルの一つとなっている道頓堀川の戎橋。「水の都 大阪」の再生を目指して、親水護岸の整備が進められている。来夏には市民団体による水泳大会が予定されている。見るからに汚い水質の浄化が必要だ。
7 「祭」 四天王寺のどやどや
天下泰平と五穀豊穣を祈願して、毎年一月十四日の寒い中、裸になって魔よけとなる護符を奪い合う。冷水が勢いよくかけられると、熱気で沸き立ち、祭はさらに盛り上がる。
8 「舟運」 千本松渡船場
本来、大阪は「水運の都」だった。昭和10年には31か所あった渡しも、今では8か所15隻の舟が活躍しているにすぎない。川が道路になり、舟は橋になった。そして意識から川が遠くなっていく。
9 「創造」 新梅田シティの「中自然の森」
近代的なビルの狭間に、滝や渓流などの水辺と虫や鳥が育つ森が創造されている。その空間に人も集い合う。水辺や緑は都会のヒートアイランド化を抑える効果も期待され、新たな街づくりに求められている。
10 「用水」 四天王寺の井戸
水道が日常となった大阪でも、かつては多くの井戸が利用されていた。特に上町台地には「天王寺七名水」といわれる良水があった。多くは枯れ果ててしまったが、残った井戸は雑用水として利用されている。
<大阪城灯りの景> 2002.10.21
大阪城灯りの景 2002.10.21
大阪城内堀にろうそくを灯す「大阪城灯りの景」は最近始まった。
ろうそくの灯りに混じってライトアップされた大阪城が川面に映え出ている。今夏に火災に見舞われた法善寺横町が献灯されている。観光イベントとしてだけでなく、厳かな場なのだ。
<
清浄泉 2002.8.6
近鉄大阪線
奈良時代の聖武、孝謙、称徳期には、行幸の際にこの辺りに「行宮」が造営され、ここが飲み水とされたという。また「大師の水」ともいわれ、弘法大師がここに井戸を掘って旱魃から助けた、という俗説も残っている。また、奈良へ向かう峠越えの旅人の喉を潤したそうだ。現在は保存会で水を守っている。真夏の暑い盛りで人影はなかったが、水を汲んで賽銭を納めていく人がいるそうだ。
2つ蛇口があり、ヒネルと勢いよく水が出る。水量が乏しいため、祠の中のポンプでポンプアップされており、一度に大量に汲むと自動的に給水が止まる仕組みになっている。「生水は飲まないように」という張り紙があるが、少し飲んでみた。さっぱりした味だったが生ぬるい。年中15℃前後の安定した湧水が多いが、ここの水源は外気温の影響を受けているようだ。
大和川の北側で生駒山地の最南端の西に位置する、この辺りの山麓には
<水都・大阪淀川めぐり> 2001.7.12
7月12日(木)、大阪市水道局主催の『水都大阪淀川めぐり』に参加した。アクアライナーに乗って、大阪城公園から
大阪城公園を出発して、しばらく平野川(第2寝屋川)を下っていく。平野川は汚染度が高く、黒ずんでいる。私の家の前にも平野川が流れているが、雨が降ると川底に溜まったヘドロが巻き上げられて、水は真っ黒になる。
天満橋手前で大川と合流すると、舟は大きくターンし、大川を上っていく。川幅も拡がり、水の色も良くなった。帝国ホテルがあるOAP辺りは桜の咲く頃、川を包んだ桜並木の下を舟で巡っていくのはさぞかしきれいであろう。
JR大阪環状線の架橋を越え、右手にある高層マンションのある辺りはその昔、
毛馬橋の手前右手には大川では唯一の取水口がある。
しばらくして、毛馬閘門に着いた。この辺りでは淀川から入り込んだ小アユ釣りで賑わうそうだ。大川は元の淀川だ。現在流れる河口までの淀川は市内の洪水防止のために明治に開削されたものだ。明治40年に完成した毛馬閘門は歴史を重ねながら、洪水を防いできた。淀川より水位が低い大川から淀川に出るためには閘門で調整しなければならない。通行するのは今では砂利運搬船やカヌーぐらいしかないそうだ。閘門内に入ると高低差およそ1.5m、じわじわと舟が上昇していった。時間にして5分くらいであろうか。道路と同じように信号があり、青信号になってようやく淀川へと動き出した。
毛馬閘門より少し下流に淀川大堰があり、流れもゆったりしている。水量が少ないと淀んで、浄水が大変になるそうだ。しばらく上っていくと左手にレンガ造りの塔が3つ見えた。柴島浄水場の取水塔で、浄水する90%をここで取水しているそうだ。
水際の護岸は草で覆われ、人影もない。貴重な魚もいるというワンド群も舟上からはわからない。しばらくすると、コンクリート護岸で覆われだした。河川敷は公園として整備されている。最近「親水」といわれ、人が水と親しめる空間づくりが進められている。生物の生息や水の自然浄化にはマイナスであろう。矛盾を感じる。
時折砂利運搬船と行き交い、ウィンドサーフィンに興じる人の姿を眺めながら船は上って行く。
淀川新橋に着くと、船はUターンして、帰途へついた。船中では、桂文福一門による余興があった。水にまつわる話をするということだったが、よくわからなかった。納涼船のような風情のある舟遊びだった。