日本名水紀行
名水百選(昭和60年選定)
平成の名水百選(平成20年選定)
目次
<舞鶴から小浜へ水めぐり> 2010.12.19
<江川湧水群と
<岩国の桜井戸と錦帯橋> 2007.8.1
<天の岩戸(恵利原の水穴)> 2004.1.6
<八ヶ岳南山麓湧水群> 2003.9.3
<雄町の冷泉・岡山水めぐり> 2002.9.2
<大垣から湖東へ> 2002.7.23
<真姿の池湧水群・国分寺崖線の湧水> 2002.7.24
<紀三井寺と和歌の浦> 2002.4.1
<洒水の滝・柿田川湧水群と大井川川越し> 2002.3.26
<若狭湾めぐり
<若狭湾めぐり 鵜の瀬の「お水送り」> 2002.3.2
<敦賀・中池見湿原と越前大野・名水の里> 2001.9.5
<JR中央線から大糸線水の旅> 2001.8.14−15
<舞鶴から小浜へ水めぐり> 2010.12.19
JR西舞鶴駅から南へ約15分歩いたところに「真名井の清水」がある。平成20年に「平成の名水百選」に選定された。線路沿いにある湧出池から水路を下った住宅街の一角に石碑のある池がある。錦鯉などが泳ぎ、大根などの洗い場となっている。かなり離れているが、駅前の新世界商店街とマナイ商店街にある西市民プラザに水汲み場がある。「舞鶴」の地名は「田辺城」(現在の舞鶴公園)の別名・舞鶴(ぶかく)城に由来しており、それを築城した細川藤孝(幽斎)ゆかりの清水だ。奈良時代の『丹後風土記』には「その味甘露の如し、万病を癒す力がある」と記され、江戸時代には「御水道(おすいどう)」と呼ばれて田辺城の城内へ引き入れて利用され、湧水を使用した都市上水道として日本で最古といわれている。今も地元住民らによる「御水道掃除」などで美しい水辺環境が維持され、生活用水や農業用水に利用されている。
真名井の清水 マナイ商店街の水汲み場
JR小浜駅から北へ約10分歩くと、「平成の名水百選」に選定された「雲城水」と「津島名水」がある。港にあるにもかかわらず、塩ぱくない。地下30mの砂れき層から自噴しており、海水が混じらないほどの水流だからだろう。昔からこの辺りは掘り抜き井戸の豊かな水に恵まれていた。この日も水汲みに来る人を見かけた。
後瀬山の麓に鎮座する八幡神社には「後瀬清水」といわれる井戸がある。御手鉢として利用されている。また西麓の常高寺の近くの線路沿いに「瀧の清水」がある。お堂や石仏が鎮座する信仰の場だ。トンネルの開通で水量が減ったとはいうものの十分汲める量だ。後瀬山と若狭湾に囲まれた小浜西組は、約400年前に築城された小浜城の城下町として栄えた。かつては町家数百軒の飲料水や酒造りに利用されたそうだ。その町並みは重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
雲城水 津島名水 瀧の清水
<江川湧水群と
JR
湧水は江川となって少し下流に江川・鴨島公園がある。その北方を流れる吉野川・阿波中央橋のそばには「源太の渡し」の石碑が立っている。架橋される前の明治初期から昭和28(1953)年まで渡しがあった。その上流の川島橋は潜水橋で、この付近に「粟島渡船場跡」があり、お遍路さんは無料で乗船できたそうだ。
江川湧水群 江川・鴨島公園 吉野川・川島橋 2008.3.26
船着場がある
眉山の麓の寺町界隈の一角に中腹から湧出している「錦竜水」がある。江戸時代には城下町の飲料水となり、水番所が置かれて保護されたそうだ。ボタンを押すと屋形の中にある流水口から一分間出る仕組みになっている。飲用には煮沸するよう注意書きがある。
<岩国の桜井戸と錦帯橋> 2007.8.1
JR山陽線
この良質で豊かな水は干ばつにも涸れることなく、地区の重要な水源となって飲料水や灌漑用水、さらには瀬戸内海を往来する船舶の飲料水にも用いられたそうだ。茶の湯にも愛でられ、「長寿の薬」とされた伝来もあるそうだ。
井戸及びその周辺の水路は、昭和57年に文化遺産として通津地区史跡桜井戸保存会により整備され、清掃などの保全活動に努められている。かつて多くの桜の木があったそうだ。春になれば、その頃を偲ばせる桜が咲き乱れることだろう。
桜井戸 錦帯橋
<天の岩戸(恵利原の水穴)> 2004.1.6
天の岩戸は別名「恵利原の水穴」と呼ばれるように、清水はしめ縄の張られた小さな鳥居の奥の洞窟から湧出している。直径1m足らずの洞窟は伊勢神宮までつながっているといわれているが、真偽のほどはわからない。水は2本の竹の樋で受けて流れ出してくる。「生水では飲まないように」という但し書きがあるものの、ミネラル分をたっぷり含んでいるというこの水を求める人はあとをたたない。
この水は高さ3mほどの禊滝となっている。かつて雨乞いの祈願が行われたそうだ。今でも小さな祠に囲まれた滝壷は行場となっている。そして伊勢神宮とゆかりが深く「裏の五十鈴川」と呼ばれていた神路川からダムへと注いでいく。
天の岩戸 伊勢萬内宮前酒造場
伊勢神宮内宮(皇大神宮)の
店の向かいにある小さな祠の楓神社の手水鉢も五十鈴川の伏流水を汲み上げているそうだ。
今回は訪れなかったが、五十鈴川の上流には「金明水」「銀明水」などの名水がある。御裳裾川とも呼ばれ、その昔、倭姫命が衣の裾の汚れを洗ったという伝説がある。内宮の「御手洗場」へと流れるこの清らかな水は、禊の水として厳かさが感じられる。
<八ヶ岳南山麓湧水群> 2003.9.3
JR
この水は古くから生活用水、灌漑用水、ニジマスの養殖用水に利用されてきた。名水百選に指定されて周辺は大滝湧水公園として整備され、釣り堀などがある。周辺の山は「大滝湧水の森」とされ、至る所から湧水があり、ため池には澄んだ水が懇々と流れニジマスが養殖されている。
大滝湧水 三分一湧水 女取湧水
小海線
ここから2km北の山間に「女取湧水」がある。武田信玄が北信濃の攻略のために開いた軍用道路とされる文字通り棒のようにまっすぐの信玄棒道を抜けていく。山道をしばらく歩くと、岩場一帯から水が湧き出している。1日10000トン、水温年中9℃である。
名水百選に指定されたこれらの湧水群は八ヶ岳の雪が伏流水となっている。しかし山麓の中腹まで別荘が建って、その生活排水の影響が出始めているという。「三分一湧水」の裏の川は水が流れていなかった。雨が大量に降ると流れるのだろうが、水量に変化は出ていないのだろうか。気になるところだ。
<雄町の冷泉・岡山水めぐり> 2002.9.2
兵庫県境に近いJR
ここは竜神を祀っているという龗神社の境内の行場で、岩盤には不動明王が鎮座している。散歩のついでに訪れて、心気を養っていくような神聖な佇まいがある。
深谷の滝・雄滝 雄町の冷泉
JR
そのため
岡山三大河川の中央に位置する旭川の上流の伏流水
その旭川の中流に位置する
幅1m足らず、長さ40mぐらいの「春の小川」は曲がりくねって、ホテイアオイなどの水草が繁茂している。目を凝らして水中を見ると、メダカがスイスイ泳いでいた。ほかにもオタマジャクシやカエルもいた。
ここは「やはたの里」として、「旭川ミニ淡水魚水族館、おもちゃの宿、ヨーグルト工房」の施設があり(入場料大人500円)、多くの種のメダカが水鉢や水槽で飼育されている。バイオテクノロジーで色付のメダカもいた。平成11年には絶滅危惧種に指定されたメダカを保全するために、こうしたビオトープ造りが盛んになっている。その先駆けとして「開校」した昭和63年より、岡山県下の生息地域が5分の1に減少したということだ。しかしメダカにも地域性があり、むやみやたらに放流すると地域の固定種が脅かされるのでは、と危惧されている。かつては小川の代名詞とされたメダカをどのように地域で保全していくか問われている。
<大垣から湖東へ> 2002.7.23
「水の都」といわれる
加賀野八幡神社の自噴井 居醒の清水 十王村の水
中山道の醒ヶ井宿として賑わった、かつての宿場町を流れる地蔵川の源流が「居醒の清水」だ。平成20(2008)年には「平成の名水百選」に選定された。名神高速道路が崖上に走るその下から脈々と水が湧き出している。清水のそばには日本武尊の銅像が立ち、「日本武尊が大蛇退治で弱った体をこの清水で癒したという伝説」から名付けられたそうだ。このほかにも平安中期に天台僧によって開かれたという「十王水」や西行伝説が残る「西行水」などが崖下から至る所で湧き出している。それらの湧水が注ぐ地蔵川は豊かで澄んでいる。水中にはバイカモ(梅花藻)の小さな白い花がユラユラと漂っていた。バイカモは水温が15℃前後の安定し、澄んだ水を好む。そしてバイカモに寄生する水生昆虫をエサとするハリヨの繁殖場にもなっている。家の前では階段が設けられ、川が生活の場になっていることがうかがえる。最近、JR
JR
<真姿の池湧水群・国分寺崖線の湧水> 2002.7.24
JR中央線
辺りはうっそうとした雑木林で薄暗い。その崖下から一日1000㎥あるという湧水が懇々と湧いている。ペットボトルを抱えて水を詰めて帰る。近くの農家の洗い場にもなっているそうだ。「真姿の池」というのは、ライ病に冒された玉造小町がこの池の水で顔を洗うと治った、という伝説に由来している。
真姿の池湧水群 殿ヶ谷戸庭園の「鹿おどし」
国分寺駅から南東に歩いてすぐのところに「殿ヶ谷戸庭園」がある。高層ビルが立ち並ぶ狭間で、うっそうと木々が茂っている。ここは別世界のようだ。かつて三菱財閥を築いた岩崎家の別邸の庭園だったが、再開発に反対する住民の熱意で、昭和54年から都立公園として有料(大人150円)で開放されている。
庭園の中の次郎弁天の池に湧水がある。崖下からジワーと湧き出している。水量が乏しいためか、池水を循環させた滝で、景観と良好な水質を形成しているようだ。崖上には「紅葉亭」と呼ばれる数奇屋造りの休憩所がある。その横には「鹿おどし」がある。竹筒に水がたまると、石に当たって「コーン」と清冽な音を響かせる、日本庭園の景物の一つだ。
東京経済大学構内には「新次郎池」がある。校舎が見えないほど、うっそうとした雑木林の中に、湧水が湧き出している。崖にはベンチが設けられ、学生の憩いの場になっていることがうかがえる。湧水は池から校内の水路へと流れ、湿生植物を育て、学外に出て野川へと注ぎ込んでいく。
新次郎池 貫井神社 「神水」
コンクリートジャングルといわれる東京にあって、こうした湧水のある緑のジャングルがある。かつては武蔵野台地一面がそうであったが、相次ぐ開発で面から線へ、そして点となってしまった。自治体では少しでも湧水を守るために、側面と底部に多数の穴がある雨水浸透升や高機能舗装を進め、雨水を地下へ浸透させている。
今回歩いた、高低差15mほどの国分寺崖線は
<紀三井寺と和歌の浦> 2002.4.1
JR
この寺には、読んで字のごとく3つの井戸があって、その霊泉は崇められてきた。清浄水、楊柳水、吉祥水の3つ合わせて名水百選に指定されている。だが残念なことではあるが、そのままの飲むのは無理のようで、煮沸して飲むように注意書きがしてある。
清浄水は入り口の楼閣から階段を上がってすぐのところのある。楊柳水はそこから南に100mのところにある。水量は乏しい。吉祥水は境内と離れた北へ400メートルの山腹にあり、地区住民の有志によって、再興され、保存・維持されている。
本堂のある山腹からは、和歌川を挟んで和歌浦が望める。和歌浦の小島にある観海閣からは紀三井寺が望める。江戸時代初期に紀州徳川家初代藩主頼宣が建て、ここから紀三井寺を遥拝したということだ。建物自体は昭和36年の第二室戸台風で崩壊したのを再建したものだ。こうして双方から見てみると、この日は青空が広がっていたのもかかわらず、あまりわからなかった。視界を遮る邪魔なものが多すぎるのだ。橋が架かり、車が走り回っている。
その小島には3つの石橋でできた三断橋が架かっている。近くには、紀州徳川家10代藩主治宝の命により建造され、1851年完成した不老橋がある。当時では珍しい石造りのアーチ橋で、紀州東照宮御旅所へ向かう「お成り道」となった。
やすみしし わご大君の 常営と 仕へまつれる 雑賀野ゆ 背向に見ゆる 沖つ島
清き渚に 風吹けば 白浪騒き 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より 然ぞ貴き 玉津島山
玉島津神社には山部赤人のこの歌碑がある。万葉集の研究で有名な犬養孝氏によれば、「雑賀野の離宮はいまの権現山の東方にあったらしく、その南方、いまの和歌浦町一帯は当時すべて海で、いま妹背山だけが入江の島としてのこっているが、船頭山、妙見山、雲蓋山、奠供山、鏡山の丘陵も当時は海中の島であって、これらが玉津島山であろう」(犬養孝『万葉の旅(中)』)とあり、観海閣のある妹背山だけ残ったということだ。
自然に埋まったり、埋め立てられたりしてきたのであろう。そして今、少し離れた雑賀崎では和歌山県の進める埋め立て計画があり、その反対運動も起こっている。貴重な自然景観は保全されるべきだ。
吉祥水 2002.4.1 三断橋 2002.4.1
<洒水の滝・柿田川湧水群と大井川川越し> 2002.3.26
洒水の滝にはJR御殿場線
公園内には三ヶ所展望台が設けられており、見下ろすと辺りが青くなった直径2mほど湧水口が観察できる。樹木も多様で、この日にはヤマセミやカワセミが観察できた。交通量の多い国道1号線沿いの街中にあって、ここはオアシスなのだ。柿田川ナショナルトラスト運動が保全を担ってきた。
しかし、最近では富士山の麓の
洒水の滝 2002.3.26 柿田川湧水群 2002.3.26 蓬莱橋 2002.3.26
JR
この橋より少し上流には、江戸時代初期に整備された東海道の宿場の一つだった島田宿の川越遺跡がある。橋のない時代、対岸の金谷まで川越しの人足を使った。肩車や台だけの平連台、高欄のついた大高欄連台などを使って渡ったのだ。値段は水深と川幅で決められた。当然、水量が多くなれば高くなり、時には川止めになって、宿で足止めを食らったそうだ。
今では、そんな不便もないほどの橋が架かっている。しかし、橋の長さに比べて本流の川筋の幅は30m程度だ。上流には発電のためのダムがいくつもでき、水量が減ってしまったためだ。河口の海岸は浸食で痩せているという。そして、ダムでは堆砂が進んでいるという。
約70万年で主流の川筋が4回変わったという。3000mの南アルプスから河口まで168kmの「暴れ川」だ。2002年3月31日にはかつての川越しを再現した「川越しまつり」が開催される。環境破壊をもたらしたダムの功罪についても目を向けてもらいたい。
<若狭湾めぐり
北近畿タンゴ鉄道
天候も良くてこの日は小波が立つ程度だった。地元の人によれば、これでも沖に出れば荒れているそうだ。若狭湾の中のさらに入り江となった伊根湾。日本海の荒波から舟を生活を守るため、この地で舟屋を造りだしてきたのだ。
天橋立は松島、宮島と並んで日本三景の一つとされている。3.6kmの砂嘴で、宮津湾を二分し、内側を阿蘇海、外側を与謝海と呼ばれる。駅とは反対に位置する傘松公園の展望台から眺めると、湾にまさしく橋が架かっているように見える。幅約5mほどの道にはおよそ7000本の黒松の並木が続き、「日本の道」百選に選ばれている。しかし、浸食が進んで保全対策が必要になっているという。
端から端まで歩いて約50分の途中に名水百選の「磯清水」がある。周囲が海に囲まれているのにもかかわらず、地下およそ5mから湧き出す水はしょっぱくない。今では珍しくなった釣瓶式の井戸から汲み上げて、試しに口を付けてみた。全然しょっぱくなかった。不思議な味だった。この水は昔から「長寿の霊泉」とされているためであろうか。
「橋立の松の下なる磯清水 都なりせば君も汲ままし」(和泉式部)。平安時代から今日まで、この水は変わることなく続いてきたということだろう。
天橋立はすべて地続きではない。駅側には2箇所、橋が掛けられている。文殊菩薩が本尊の智恩寺近くの小天橋は廻旋橋で、舟が通行するとき90度回転する。この日は付け替え工事中で、臨時で運行していた、20mほど対岸まで一分もかからない渡船に乗った。
<若狭湾めぐり 鵜の瀬の「お水送り」> 2002.3.2
近江今津駅からバスに乗ること30分、若狭熊川に着いた。ここはかつて若狭から京都へ主に鯖を運んだことから名づけられた鯖街道の宿場町だった。豊臣秀吉が権勢を振るった天正年間に、時の領主浅野長政が北川から導水し、街道に用水路を巡らしたことで発展したという。かつて造り酒屋は家屋に水を導水して利用したという。今も玄関前に設けられた「かわと」と呼ばれる洗い場で、勢いよく流れる水で野菜を洗っている姿が見られる。平成8年に上ノ町、中ノ町、下ノ町の三地区合わせた町並みが伝統的建造物群保存地区に指定された。
小浜線
あたりの岩や樹木は苔むし、その隙間から水が激しく流れ出している。瓜をつけたところあまりの冷たさに瓜が割れた、というところから「瓜割の滝」と名づけられたそうだ。試しに手をつけてみた。3月に入って、もう雪はなかったが、それほど冷たく感じなかった。おそらく湧き出した水がまだ外気に影響していないということだろう。ほぼ年中12℃で一定だということだ。水中の石には、この水質水温でしか生育しないという紅藻類が生育しているそうだ。つまりその生物を保全するには、この環境を保全しなければならないということだ。ここの水は協力金を300円で持ち帰りができる。少し口で飲んでみると、さっぱりとした味だった。
小浜線
日も暮れて寒さが増した20時半すぎ、神宮寺を出発した松明行列が鵜の瀬に到着した。松明が次々と川原に設けられた護摩火焚きに投げ込まれと、その火はどんどん勢いを増した。対岸では山伏姿の行者と白装束の僧侶によって祈祷され、竹筒に入れられた水が川に流された。科学的、物理的には有り得ないこととしても、若狭と奈良と場を隔てながらも、奈良時代から延々と続いてきた神事はロマンあふれるものだ。松明で暗闇の中に浮かぶ姿が、何かしら高揚した雰囲気を漂わせてくる。水を流す瞬間はさらに異様な雰囲気になった。
瓜割の滝 2002.3.2 「お水送り」神事 2002.3.2
<敦賀・中池見湿原と越前大野・名水の里> 2001.9.5
JR北陸線
ここは昭和30年まで見られたなつかしい風景を保全することを目的にしている。かつて敦賀にあった築100年の茅葺の農家が移築され、狭いながらも田んぼもある。今日は数人の農家の人らが鎌で稲刈りし、穂かけ作業をしていた。コンバインで稲刈りされる風景に見慣れた私には新鮮な風景だった。
江戸時代の新田開発で、湿田として開墾された。湿田は水を引く手間は省ける反面、稲刈りなどの作業は困難だ。そのため放棄田が増え、荒れ果ててしまっていた。そこに大阪ガスがガスタンクを建設する計画が持ち上がった。地域住民の反対運動の結果、できたのがこの『人と自然のふれあいの里』だ。案内所やガイドも充実し、木道には滑り止めがあり、雨の日でも車椅子でも安全に行ける。見下ろすと、まじかに植物や魚を観察できる。私の目前を蛇が横切ったときには驚いた。
しかし中池見湿原全体から見れば、整備されているのはほんの一部だ。その残りがこの先どうなるのかはわからない。昔からあったような板切れの木道は一般の立ち入りを制限している。湿田として人が水路を管理することで、メダカなどの魚も育ってきた。荒れ果てていけば、ヨシなどの高い草が伸び、下草も育たなくなり、植生も単調になるだろう。それでも、ガスタンクを造るよりはましだと思う。
福井駅から九頭竜線で約一時間の越前大野市は「名水の里」として知られている。小高い亀山の頂きにある越前大野城の天守閣(昭和43年に再建)から眺めると、街が山に囲まれていることがわかる。そのおかげで地下水が豊富で至る所に湧水池がある。その一つが昭和60年に環境庁(現在は環境省)の「名水百選」に認定された「御清水」(おしょうず)だ。江戸時代には城下の生活用水の水源になったことから「殿様清水」とも呼ばれた。地下から水が湧き上がってくる。飲んでみるとさっぱりした味だった。飲料水、野菜洗い場、洗濯場と区分されている。長さにして20m。水道が普及した今では使われることはなさそうだが、掃除当番を決め、地域の人らで守っているのがわかる。江戸時代の上水路は生活排水路に変わったが、その排水は都会と違って澄んでいる。
平成20(2008)年には「平成の名水百選」に選定された「本願清水」(
他にもいくつか清水はある。しかし、最近その危機を訴える記事が出た。週刊朝日(2001.8.10号から8.31号まで)に三回シリーズで、「『水の里』大野の危機」(高杉晋吾)が連載された。それによると、上流にある中竜鉱山跡に、ダイオキシンの問題がある焼却灰が埋め立てられていること。有害物質を含んだ鉱滓がそのまま放置されていること。それらが地下水汚染を引き起こすのではないか、というものだ。これまでにも
御清水 2001.9.5 イトヨの里 2001.9.5
<JR中央線から大糸線水の旅> 2001.8.14−15
JR中央線
なかでも木曽ヒノキの中身をくり貫いて造られた「水舟」がいい。裏山の豊富な水を導水しているそうだ。スイカを冷やしている光景に生活が感じられる。昔も生活に利用され、旅人ののどを潤したのであろう。
切り立った巨大な岩石の間を水が流れる木曽川の風景が、車窓から目に入る。上松駅から30分ほど歩いたところにある「寝覚の床」だ。
訪れてみると、10数mもあるような岩石に圧倒され、切り立った岩盤の上から川面を見下ろすと目がくらんだ。
これは、水の浸食作用で花崗岩の岩盤を長い年月をかけて削り取られたもので、垂直方向と水平方向にある方状節理(割れ目)やポットホール(甌穴)は全国的にも代表的なものとされている。
水力発電のために水量が減少し、かつて木曽ヒノキが河口の名古屋まで流されるほどの激流だったという昔の面影はない。所々水が淀んでいる。それが残念だ。
寝覚ノ床 2001.8.14 奈良井宿 2001.8.14
鳥井峠を越える長いトンネルを抜けると、突然雨が降ってきた。奈良井宿のある
鳥井峠は木曽川と信濃川へ流れ込む川の分水嶺になっている。言うなれば太平洋と日本海を分ける中央分離帯のようなものである。奈良井川は信濃川に流れ込み、
奈良井宿は江戸時代、中山道67宿の一つとされ、難所だった鳥井峠越しの休息地として繁栄し、「奈良井千軒」といわれるほどだった。かつての石置きの屋根の家屋はもうないが、鉄板葺きの屋根の町並みが数百メートルにも渡って残っている。昭和53年に「国選定重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。明治天皇が宿泊した上問屋資料館があり、民宿もあり昔の宿気分を味わえる。
そのなかでも生活用水、消防用水、旅人ののどを潤した「水場」が6箇所整備されている。飲んでみると、大阪人の慣れた生ぬるい、塩素臭さの残る味とは違い、ひんやりとしたさらっとした味だった。やはりこれが「水」なんだと思う。
大糸線
テニスコートほどの広さの苔むした湿地から水が湧き出している。湧水が小川になり、バイカモの小さな花が水流に漂うように咲いていた。4月中頃には福寿草が咲き、ミズバショウも咲くそうだ。水に触れると、ひんやりとしている。
しかし、上手のほうは水が湧き出していなかった。湧水が減れば、しだいに乾燥してくるだろう。植生も変化し、草原に覆われるようになるだろう。地表からの湧水を間近に見られるのは全国的にも珍しいそうだ。そんな貴重なものを無くさないためには、地域の開発は避けなければならない。
この近くには親海(およみ)湿原がある。以前は湿田だったものが放棄され、今のようになったそうだ。標高745mのここには水田に生える雑草から低層、中間層、高層の湿原性の多様な植生が広がっている。木道を歩いていると、ぴょんぴょん跳ねる音がした。カエルが次々と水路へ飛び込んでいたのだ。豊かな生態系がある。
姫川源流 2001.8.15 大王わさび農場 2001.8.15
穂高はワサビの産地である。全国の半数を生産している。それを支えるのが、豊富な清涼な水だ。穂高川、万水川、犀川の豊富な水だけでなく、地下水の湧水が豊富なのだ。川の流れとは別に、この辺りの地下水は、安曇野の西側にそびえる北アルプスの雪解け水だけでなく、南北100km。東西50kmの広範囲の水を集めているという。そのおかげで豊富な清涼な水に恵まれている。
穂高川に沿って、ワサビ田が広がる。つくり方は色々あるようだが、ここは砂づくりで、あぜに水温13℃の水を内外から流し込んでいた。
また、黒澤明監督の映画『夢』のロケ地にもなった、大王ワサビ農園を訪れた。ワサビを生産した観光地で、お土産も豊富だ。ここの名物であるワサビのソフトクリームを食べてみた。練りワサビとクリームを混ぜたような色だったが、味はワサビの辛さもなく、さらっとした甘さがした。
映画の舞台となった、水車小屋は万水川のそばにあった。今日(8月15日)の川は少し濁っていた。例年はもっと透明度があるそうだ。雨が少ないためだろうか。その水車を前にして、映画では老人(笠智衆)が旅の青年(寺尾聡)に語りかけるシーンがあった。「まず人間に一番大切なのは、いい空気や自然や水。それをつくり出す木や草なのに、それは汚され放題、失われ放題。汚された空気や水は人間の心を汚してしまう」
ここに佇んでいると、ふとそんな言葉が口に出てしまう。