日本名水紀行

名水百選(昭和60年選定)

平成の名水百選(平成20年選定)

---

目次

<舞鶴から小浜へ水めぐり> 2010.12.19

<江川湧水群と徳島市内水をめぐる> 2008.3.26

<岩国の桜井戸と錦帯橋> 2007.8.1

<天の岩戸(恵利原の水穴)> 2004.1.6

<八ヶ岳南山麓湧水群> 2003.9.3

<雄町の冷泉・岡山水めぐり> 2002.9.2

<大垣から湖東へ> 2002.7.23

<真姿の池湧水群・国分寺崖線の湧水> 2002.7.24

<紀三井寺と和歌の浦> 2002.4.1

<洒水の滝・柿田川湧水群と大井川川越し> 2002.3.26

<若狭湾めぐり 伊根町舟屋と天橋立> 2002.3.3

<若狭湾めぐり 鵜の瀬の「お水送り」> 2002.3.2  

<敦賀・中池見湿原と越前大野・名水の里> 2001.9.5

JR中央線から大糸線水の旅> 2001.8.14−15

もどる

---

<舞鶴から小浜へ水めぐり> 2010.12.19

JR西舞鶴駅から南へ約15分歩いたところに「真名井の清水」がある。平成20年に「平成の名水百選」に選定された。線路沿いにある湧出池から水路を下った住宅街の一角に石碑のある池がある。錦鯉などが泳ぎ、大根などの洗い場となっている。かなり離れているが、駅前の新世界商店街とマナイ商店街にある西市民プラザに水汲み場がある。「舞鶴」の地名は「田辺城」(現在の舞鶴公園)の別名・舞鶴(ぶかく)城に由来しており、それを築城した細川藤孝(幽斎)ゆかりの清水だ。奈良時代の『丹後風土記』には「その味甘露の如し、万病を癒す力がある」と記され、江戸時代には「御水道(おすいどう)」と呼ばれて田辺城の城内へ引き入れて利用され、湧水を使用した都市上水道として日本で最古といわれている。今も地元住民らによる「御水道掃除」などで美しい水辺環境が維持され、生活用水や農業用水に利用されている。

DSC_3970 DSC_3994

真名井の清水          マナイ商店街の水汲み場

JR小浜駅から北へ約10分歩くと、「平成の名水百選」に選定された「雲城水」と「津島名水」がある。港にあるにもかかわらず、塩ぱくない。地下30mの砂れき層から自噴しており、海水が混じらないほどの水流だからだろう。昔からこの辺りは掘り抜き井戸の豊かな水に恵まれていた。この日も水汲みに来る人を見かけた。

後瀬山の麓に鎮座する八幡神社には「後瀬清水」といわれる井戸がある。御手鉢として利用されている。また西麓の常高寺の近くの線路沿いに「瀧の清水」がある。お堂や石仏が鎮座する信仰の場だ。トンネルの開通で水量が減ったとはいうものの十分汲める量だ。後瀬山と若狭湾に囲まれた小浜西組は、約400年前に築城された小浜城の城下町として栄えた。かつては町家数百軒の飲料水や酒造りに利用されたそうだ。その町並みは重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

DSC_4043DSC_4050DSC_4074

雲城水               津島名水               瀧の清水

 

<江川湧水群と徳島市内水をめぐる> 2008.3.26

JR西麻植駅から歩いて10分ほどの吉野川の右岸下に江川湧水群がある。1954年には県の天然記念物に指定されている。それというのも「不思議な水」として知られている。地下水や湧水は15℃前後と年平均して一定で冬には暖かく、夏には冷たく感じることが多い。しかしここの湧水群は実際に温度変化して冬には約20℃、夏には約10℃になる。その原因として江川が吉野川の築堤で本流と切り離されたこと、地下水となって砂利層を通るたびに温度変化して半年かけて流れてくる、と考えられているが実態ははっきりしていない。

湧水は江川となって少し下流に江川・鴨島公園がある。その北方を流れる吉野川・阿波中央橋のそばには「源太の渡し」の石碑が立っている。架橋される前の明治初期から昭和28(1953)年まで渡しがあった。その上流の川島橋は潜水橋で、この付近に「粟島渡船場跡」があり、お遍路さんは無料で乗船できたそうだ。

msotw9_temp0 msotw9_temp0 msotw9_temp0

江川湧水群        江川・鴨島公園      吉野川・川島橋     2008.3.26

徳島市街地を流れる新町川を保険料100円のみで乗船できるクルーズがある。徳島駅を中心に周囲6kmの中州の島でひょうたんの形をした「ひょうたん島」を約25分で一周する。運航しているNPO「新町川を守る会」は、戦前は舟運で栄えて戦後に汚濁が進んだ新町川を清掃する目的に結成された。そして川を生かした町づくり活動の一環として始められた。会では徳島を「水都」として売り込みたいそうだ。

船着場がある新町川水際公園は「四国のみずべ八十八カ所」に指定されている。徳島市内には138の河川があり、「八百八橋」(実際は200ほど)といわれる大阪を超える1600の橋がある。クルーズ内には20の橋があり、吉野川が流れるところには3つの橋が出合う中央に信号のある全国でも珍しい「三ツ合橋」や、架橋での難工事に人柱となって水神を鎮めたという「人柱伝説」がある福島橋がある。

msotw9_temp0 msotw9_temp0 msotw9_temp0

新町川クルーズ           三ツ合橋   2008.3.26        錦竜水   2008.4.1

眉山の麓の寺町界隈の一角に中腹から湧出している「錦竜水」がある。江戸時代には城下町の飲料水となり、水番所が置かれて保護されたそうだ。ボタンを押すと屋形の中にある流水口から一分間出る仕組みになっている。飲用には煮沸するよう注意書きがある。

 

<岩国の桜井戸と錦帯橋> 2007.8.1

JR山陽線通津駅から北に約5分歩いたところに、環境庁(現環境省)の名水百選の「桜井戸」がある。覆屋のある井戸は蓋がされていて中の様子はわからない。約50㎥/日の湧水が水路に注いでいる。また傍らには蛇口から水が汲めるようになっている。ただし飲用には煮沸するよう注意書きがある。

この良質で豊かな水は干ばつにも涸れることなく、地区の重要な水源となって飲料水や灌漑用水、さらには瀬戸内海を往来する船舶の飲料水にも用いられたそうだ。茶の湯にも愛でられ、「長寿の薬」とされた伝来もあるそうだ。

井戸及びその周辺の水路は、昭和57年に文化遺産として通津地区史跡桜井戸保存会により整備され、清掃などの保全活動に努められている。かつて多くの桜の木があったそうだ。春になれば、その頃を偲ばせる桜が咲き乱れることだろう。

msotw9_temp0 msotw9_temp0

桜井戸                    錦帯橋

 岩国市には日本三名橋といわれる錦帯橋がある。長さ210m、幅5mで木造の5つの反り橋でできている。川幅200mを超える錦川は普段は浅瀬だが、一度増水すると激流となる。そこで「流れない橋を」願いにアーチ型の橋が1673(延宝元)年に完成した。以後風雪に耐えた橋が昭和25年の大増水で流失してしまった。その二年後には再建され、平成13〜15年には老朽化に伴う「平成の架け替え」がなされた。

 

<天の岩戸(恵利原の水穴)> 2004.1.6

 伊勢市と礒部を結ぶバス路線のほぼ中間に、志摩五町の上水道水源となっている神路ダムがある。そこから2km山に入ると、名水百選に選ばれている天の岩戸がある。そこは神域とされ天照大神が姿を隠したという伝説がある。深い杉木立にはただならぬ雰囲気が漂っている。

天の岩戸は別名「恵利原の水穴」と呼ばれるように、清水はしめ縄の張られた小さな鳥居の奥の洞窟から湧出している。直径1m足らずの洞窟は伊勢神宮までつながっているといわれているが、真偽のほどはわからない。水は2本の竹の樋で受けて流れ出してくる。「生水では飲まないように」という但し書きがあるものの、ミネラル分をたっぷり含んでいるというこの水を求める人はあとをたたない。

 この水は高さ3mほどの禊滝となっている。かつて雨乞いの祈願が行われたそうだ。今でも小さな祠に囲まれた滝壷は行場となっている。そして伊勢神宮とゆかりが深く「裏の五十鈴川」と呼ばれていた神路川からダムへと注いでいく。

msotw9_temp0 msotw9_temp0

天の岩戸         伊勢萬内宮前酒造場

伊勢神宮内宮(皇大神宮)の門前町、おはらい町の「おかげ横丁」に伊勢萬内宮前酒造場がある。その店内に五十鈴川の伏流水を汲み上げ、酒の仕込み水に使われている清水がある。ひしゃくが置かれ「御自由にお飲み下さい」と書かれてあるので、一口飲んでみた。さっぱりとした味だが、少し生暖かいのは店内の熱気のせいであろうか。

店の向かいにある小さな祠の楓神社の手水鉢も五十鈴川の伏流水を汲み上げているそうだ。

今回は訪れなかったが、五十鈴川の上流には「金明水」「銀明水」などの名水がある。御裳裾川とも呼ばれ、その昔、倭姫命が衣の裾の汚れを洗ったという伝説がある。内宮の「御手洗場」へと流れるこの清らかな水は、禊の水として厳かさが感じられる。

 

<八ヶ岳南山麓湧水群> 2003.9.3

JR小淵沢駅から東へ25分ほど歩くと大滝神社がある。標高820mに位置する本殿裏の崖から1日22000トン、水温年中12℃の水が湧出している。丸太をくり貫いた水路から水が勢いよく流れ落ちている。「井戸水が濁った時にはこの湧水を井戸に注ぐと清澄になる」と伝えられてきたのがわかるほど澄んだ水だ。

この水は古くから生活用水、灌漑用水、ニジマスの養殖用水に利用されてきた。名水百選に指定されて周辺は大滝湧水公園として整備され、釣り堀などがある。周辺の山は「大滝湧水の森」とされ、至る所から湧水があり、ため池には澄んだ水が懇々と流れニジマスが養殖されている。

msotw9_temp0 msotw9_temp0 msotw9_temp0

大滝湧水                      三分一湧水                      女取湧水

小海線甲斐小泉駅から5分ほど歩いたところに「三分一湧水」がある。1日8500トン、水温年中10℃である。古来から下流の人々の命の源とされ、生活用水、農業用水に利用されてきた。しかし水争いが絶えなかったため三等分ずつ分水されたところから三分一湧水といわれるようになった。湧水出口に置かれた三角の石が、左右と直線の水路にうまく三等分されるようになっている。

ここから2km北の山間に「女取湧水」がある。武田信玄が北信濃の攻略のために開いた軍用道路とされる文字通り棒のようにまっすぐの信玄棒道を抜けていく。山道をしばらく歩くと、岩場一帯から水が湧き出している。1日10000トン、水温年中9℃である。長坂町の水源地とされ、一角が塀で囲まれている。そこから流れ出している水を求めてやってくる人も多いようだ。しかし立て看板には「水利権が設定された水」ということで大量に汲み出すことは止めたほうが良さそうだ。ここに来るまでに多くの別荘があった。その住人の生活用水になっているのかもしれない。

名水百選に指定されたこれらの湧水群は八ヶ岳の雪が伏流水となっている。しかし山麓の中腹まで別荘が建って、その生活排水の影響が出始めているという。「三分一湧水」の裏の川は水が流れていなかった。雨が大量に降ると流れるのだろうが、水量に変化は出ていないのだろうか。気になるところだ。

 

<雄町の冷泉・岡山水めぐり> 2002.9.2

兵庫県境に近いJR三石駅から徒歩20分のところに、備前市の名勝に指定されている深谷(みたに)の滝がある。高さ13m、幅3mの岩盤から、長年の浸食で皿岩がえぐれてできた滝壷に流れ落ちる雄滝と、そこからこぼれ出して流れる雌滝とがある。さながらプールのウォータースライダのようだ。今夏の雨不足のためか、「瀑布」とはいえそうにもなかった。

 ここは竜神を祀っているという龗神社の境内の行場で、岩盤には不動明王が鎮座している。散歩のついでに訪れて、心気を養っていくような神聖な佇まいがある。

msotw9_temp0 msotw9_temp0

深谷の滝・雄滝                        雄町の冷泉

 JR高島駅から北へ歩くこと15分、住宅街の一角に昭和60年に環境庁名水百選に指定された「雄町の冷泉」がある。江戸時代、岡山藩の5代藩主池田綱政以来、藩の御用水とされた名水だ。「雄町の清水、炎天に減ぜず、露雨に増さず、常に地上にあふれて田畑にそそげり。味はきわめて美味にして、然も深く軽きこと他の水と大いに異なれり。世に難き良水なり」(『東備郡村誌』)という記録も残っている。しかし休日には1000人のも及んだ人と地域住民とのトラブルから、現在では冷泉の給水は止められている。

そのため岡山市は平成9年に、ここから少し東に「おまちアクアガーデン「おまちの水」」を開設した。冷泉と同じ帯水層から汲み上げている。訪れる人は絶え間なく、4つある給水栓を譲り合いながら汲み出していく。「一部水質基準に適合していないということで生水は飲まないように」という注意書きがある。それでも少し口をつけてみた。少し生ぬるかったが、癖のない味だった。

岡山三大河川の中央に位置する旭川の上流の伏流水が岡山市原から雄町にかけての礫質土層の帯水層を流下し、粘性土層で被圧されて湧水しているそうだ。昔は旭川の河道であった、と考えられている。それほど湧水が豊富ということなのだ。

 

 その旭川の中流に位置する建部町に「めだかの学校」がある。福渡駅から歩いて20分。金属製の橋げたに、欄干などは木製の幸福橋がある。歩行者専用で今では珍しい潜水橋だ。これを渡ると、岡山県下有数のラジウムを含む温泉が湧出している八幡温泉郷の外れに「めだかの学校」がある。

幅1m足らず、長さ40mぐらいの「春の小川」は曲がりくねって、ホテイアオイなどの水草が繁茂している。目を凝らして水中を見ると、メダカがスイスイ泳いでいた。ほかにもオタマジャクシやカエルもいた。

ここは「やはたの里」として、「旭川ミニ淡水魚水族館、おもちゃの宿、ヨーグルト工房」の施設があり(入場料大人500円)、多くの種のメダカが水鉢や水槽で飼育されている。バイオテクノロジーで色付のメダカもいた。平成11年には絶滅危惧種に指定されたメダカを保全するために、こうしたビオトープ造りが盛んになっている。その先駆けとして「開校」した昭和63年より、岡山県下の生息地域が5分の1に減少したということだ。しかしメダカにも地域性があり、むやみやたらに放流すると地域の固定種が脅かされるのでは、と危惧されている。かつては小川の代名詞とされたメダカをどのように地域で保全していくか問われている。

 

<大垣から湖東へ> 2002.7.23

 「水の都」といわれる大垣市は、昭和30年頃まで市内至る所で自噴失するほど地下水が豊かな町だった。しかし工場の進出など地域開発で地下水はどんどん枯れていった。唯一残ったのが加賀野城の跡地にある加賀野八幡神社の自噴井戸である。平成20(2008)年には「平成の名水百選」に選定された。1m四方の井戸から脈々と水が湧き出している。「浅井戸は伊吹山系、揖保川の伏流水、地下136mの神社の井戸は木曽川の伏流水では」(『日帰り名水100』旅行読売出版社)と推察されている。その水を求めて、タンクやペットボトルを抱えて訪れる人がひっきりなしだ。そしてひしゃくと升を使って手際よく水を詰めて帰る。「毎年検査し、水質基準には適合していますが、生水は飲まないように」という注意書きがあるが、酷暑の中、おいしそうにのどを潤していた。私も一口二口飲んでみた。さっぱりとした癖のない味だった。 流れ出る水は境内の池や周囲の水路へ注ぎ込む。そこには湧水などの15℃前後の安定した清らかな水でしか生息できないハリヨが棲んでいる。背中や腹や尻ビレにトゲがある体長7cmほどの小さな魚が泳ぎまわっていた。初夏にはホタルが飛ぶ姿が見られるそうだ。

msotw9_temp0 msotw9_temp0 msotw9_temp0

加賀野八幡神社の自噴井                 居醒の清水                      十王村の水

 中山道の醒ヶ井宿として賑わった、かつての宿場町を流れる地蔵川の源流が「居醒の清水」だ。平成20(2008)年には「平成の名水百選」に選定された。名神高速道路が崖上に走るその下から脈々と水が湧き出している。清水のそばには日本武尊の銅像が立ち、「日本武尊が大蛇退治で弱った体をこの清水で癒したという伝説」から名付けられたそうだ。このほかにも平安中期に天台僧によって開かれたという「十王水」や西行伝説が残る「西行水」などが崖下から至る所で湧き出している。それらの湧水が注ぐ地蔵川は豊かで澄んでいる。水中にはバイカモ(梅花藻)の小さな白い花がユラユラと漂っていた。バイカモは水温が15℃前後の安定し、澄んだ水を好む。そしてバイカモに寄生する水生昆虫をエサとするハリヨの繁殖場にもなっている。家の前では階段が設けられ、川が生活の場になっていることがうかがえる。最近、JR醒ヶ井駅前に「水の宿駅」という飲食などができる施設ができた。米原町(現在米原市)ではここを新たな観光地として整備する計画らしい。そのために水が汚染されて本末転倒することがないようにしてもらいたいものだ。

JR南彦根駅より北西に歩いて15分ぐらいの街角に「十王村の水」がある。石柱で囲まれた池の中央には、水神(竜神)を祀った小さな六角形の地蔵堂があり、そのほとりから鈴鹿山系の伏流水とされる水が湧き出している。湧き出しているといっても地下からポンプアップしているそうだ。環境庁名水百選に指定された後、地域の変貌で地下水位が低下し、水が枯れたそうだ。そこで新たに整備されて今のようになったという。江戸時代元禄期には「五箇荘清水ヶ鼻の水」「醒井の水」と合せて湖東の三名水といわれていた。学生らが自転車を止めて、のどを潤していく姿や、ペットボトルに水を詰めていく人も見かけた。一時途絶えたとはいえ、今でも町の名水でオアシスなのだ。

 

<真姿の池湧水群・国分寺崖線の湧水> 2002.7.24

 JR中央線国分寺駅南口より高層のショッピングセンターやマンションを抜けて10分ぐらいのところに、江戸時代(1748〜1867)には尾張徳川家の御鷹場があったことから、「お鷹の道」といわれる細道に沿って流れる小川がある。今風の一戸建ての住宅が立ち並ぶ中、今も残っている農家の屋敷林を抜けると、そこが環境庁名水百選とされている「真姿の池湧水群」だ。

 辺りはうっそうとした雑木林で薄暗い。その崖下から一日1000㎥あるという湧水が懇々と湧いている。ペットボトルを抱えて水を詰めて帰る。近くの農家の洗い場にもなっているそうだ。「真姿の池」というのは、ライ病に冒された玉造小町がこの池の水で顔を洗うと治った、という伝説に由来している。

msotw9_temp0 msotw9_temp0

  真姿の池湧水群     殿ヶ谷戸庭園の「鹿おどし」

 国分寺駅から南東に歩いてすぐのところに「殿ヶ谷戸庭園」がある。高層ビルが立ち並ぶ狭間で、うっそうと木々が茂っている。ここは別世界のようだ。かつて三菱財閥を築いた岩崎家の別邸の庭園だったが、再開発に反対する住民の熱意で、昭和54年から都立公園として有料(大人150円)で開放されている。

 庭園の中の次郎弁天の池に湧水がある。崖下からジワーと湧き出している。水量が乏しいためか、池水を循環させた滝で、景観と良好な水質を形成しているようだ。崖上には「紅葉亭」と呼ばれる数奇屋造りの休憩所がある。その横には「鹿おどし」がある。竹筒に水がたまると、石に当たって「コーン」と清冽な音を響かせる、日本庭園の景物の一つだ。

 

 東京経済大学構内には「新次郎池」がある。校舎が見えないほど、うっそうとした雑木林の中に、湧水が湧き出している。崖にはベンチが設けられ、学生の憩いの場になっていることがうかがえる。湧水は池から校内の水路へと流れ、湿生植物を育て、学外に出て野川へと注ぎ込んでいく。

 

 小金井市に入ると、水神を貫井弁才天として祀った貫井神社がある。その本殿裏が崖で、「神水」とされる石組みの囲った奥のほうから懇々と湧水が湧き出している。残念ながら、平成2年の水質検査では飲料には適していないそうだ。昔は水量も豊かだったという。

msotw9_temp0 msotw9_temp0

新次郎池                         貫井神社 「神水」

 コンクリートジャングルといわれる東京にあって、こうした湧水のある緑のジャングルがある。かつては武蔵野台地一面がそうであったが、相次ぐ開発で面から線へ、そして点となってしまった。自治体では少しでも湧水を守るために、側面と底部に多数の穴がある雨水浸透升や高機能舗装を進め、雨水を地下へ浸透させている。小金井市の浸透升の普及率は全国一の40.6%になっている。そして同時に水質を良くさせる雑木林が必要だ。一部では緑地保全地区に指定されているが、それらをどう保全していくか問われている。

今回歩いた、高低差15mほどの国分寺崖線は国分寺市小金井市からさらに三鷹市調布市狛江市世田谷区の等々力渓谷へと連なっていく。その湧水のほとんどは野川へと注いでいく。かつては下水が流れ込み汚染が激しかったが、ホタルを観賞出来る川づくりを目指した住民の努力でかなり改善された。地域住民の協力なくして保全はない。

 

<紀三井寺と和歌の浦> 2002.4.1

 JR紀三井寺駅から歩いて5分で紀三井寺に到着する。早咲きの桜として有名な寺だ。しかし今年は記録的な開花スピードで、散り始めていたがまだまだ淡いピンクの花びらは残していた。

この寺には、読んで字のごとく3つの井戸があって、その霊泉は崇められてきた。清浄水、楊柳水、吉祥水の3つ合わせて名水百選に指定されている。だが残念なことではあるが、そのままの飲むのは無理のようで、煮沸して飲むように注意書きがしてある。

清浄水は入り口の楼閣から階段を上がってすぐのところのある。楊柳水はそこから南に100mのところにある。水量は乏しい。吉祥水は境内と離れた北へ400メートルの山腹にあり、地区住民の有志によって、再興され、保存・維持されている。

本堂のある山腹からは、和歌川を挟んで和歌浦が望める。和歌浦の小島にある観海閣からは紀三井寺が望める。江戸時代初期に紀州徳川家初代藩主頼宣が建て、ここから紀三井寺を遥拝したということだ。建物自体は昭和36年の第二室戸台風で崩壊したのを再建したものだ。こうして双方から見てみると、この日は青空が広がっていたのもかかわらず、あまりわからなかった。視界を遮る邪魔なものが多すぎるのだ。橋が架かり、車が走り回っている。

その小島には3つの石橋でできた三断橋が架かっている。近くには、紀州徳川家10代藩主治宝の命により建造され、1851年完成した不老橋がある。当時では珍しい石造りのアーチ橋で、紀州東照宮御旅所へ向かう「お成り道」となった。

 

やすみしし わご大君の 常営と 仕へまつれる 雑賀野ゆ 背向に見ゆる 沖つ島

清き渚に 風吹けば 白浪騒き 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より 然ぞ貴き 玉津島山

 

玉島津神社には山部赤人のこの歌碑がある。万葉集の研究で有名な犬養孝氏によれば、「雑賀野の離宮はいまの権現山の東方にあったらしく、その南方、いまの和歌浦町一帯は当時すべて海で、いま妹背山だけが入江の島としてのこっているが、船頭山、妙見山、雲蓋山、奠供山、鏡山の丘陵も当時は海中の島であって、これらが玉津島山であろう」(犬養孝『万葉の旅())とあり、観海閣のある妹背山だけ残ったということだ。

自然に埋まったり、埋め立てられたりしてきたのであろう。そして今、少し離れた雑賀崎では和歌山県の進める埋め立て計画があり、その反対運動も起こっている。貴重な自然景観は保全されるべきだ。

msotw9_temp0 msotw9_temp0

吉祥水 2002.4.1        三断橋         2002.4.1

<洒水の滝・柿田川湧水群と大井川川越し> 2002.3.26

洒水の滝にはJR御殿場線山北駅より歩いて30分で着く。「日本の滝百選」にも選ばれている。標高200〜300mの間で三段の瀑布となっており、一の滝が69.3m、二の滝が16.0m、三の滝が29.7mとなっている。流しそうめんのような細長い滝だ。滝沢川の不断の浸食によって滝口が後退しているそうだ。どうりで滝口は少し入り江になって、周囲の断崖からも水が滴り落ちている。だからといって近くまで行ける遊歩道や橋がいるものなのか。

 

静岡県清水町にある柿田川湧水群は、富士山東南斜面1700m付近の雨水、雪融け水が三島溶岩流の間を数ヶ月から数十年経て地下水となって湧き出たものだ。湧水量一日約100万トン、主に上中流に湧水口があり、大小合わせて数十ヶ所ある。下流1200mで狩野川と合流し、駿河湾に注ぐ。沼津、三島、熱海、函南町清水町の上水道水源となっている。

公園内には三ヶ所展望台が設けられており、見下ろすと辺りが青くなった直径2mほど湧水口が観察できる。樹木も多様で、この日にはヤマセミやカワセミが観察できた。交通量の多い国道1号線沿いの街中にあって、ここはオアシスなのだ。柿田川ナショナルトラスト運動が保全を担ってきた。

しかし、最近では富士山の麓の三島市でも湧水量が減ってきており、ここも例外ではないようだ。

msotw9_temp0 msotw9_temp0 msotw9_temp0

洒水の滝 2002.3.26     柿田川湧水群     2002.3.26           蓬莱橋        2002.3.26

JR島田駅から歩いて30分。大井川に架かる唯一の木賃(往復50円)の橋として有名な蓬莱橋がある。1879年(明治12)に完成したが、増水で再々被害を受け、1965年(昭和40)にコンクリートの橋脚になった。全長897.4m、通行幅2.7mで、所々色の違う橋板で補修した跡があり、欄干が朽ちているところもある。ガタガタした不安定な歩き心地が怖いような。

この橋より少し上流には、江戸時代初期に整備された東海道の宿場の一つだった島田宿の川越遺跡がある。橋のない時代、対岸の金谷まで川越しの人足を使った。肩車や台だけの平連台、高欄のついた大高欄連台などを使って渡ったのだ。値段は水深と川幅で決められた。当然、水量が多くなれば高くなり、時には川止めになって、宿で足止めを食らったそうだ。

今では、そんな不便もないほどの橋が架かっている。しかし、橋の長さに比べて本流の川筋の幅は30m程度だ。上流には発電のためのダムがいくつもでき、水量が減ってしまったためだ。河口の海岸は浸食で痩せているという。そして、ダムでは堆砂が進んでいるという。

約70万年で主流の川筋が4回変わったという。3000mの南アルプスから河口まで168kmの「暴れ川」だ。2002年3月31日にはかつての川越しを再現した「川越しまつり」が開催される。環境破壊をもたらしたダムの功罪についても目を向けてもらいたい。

 

<若狭湾めぐり 伊根町舟屋と天橋立> 2002.3.3

北近畿タンゴ鉄道天橋立駅からバスで1時間足らずの京都府伊根町は舟屋の里で有名だ。伊根湾を囲むように立ち並ぶ家屋は、海に面した一階に舟を収納することができる。つまり舟のガレージがある家なのだ。2階は住まいで、洗濯物が干されていたりすると、生活しているなあーと思う。舟屋の面影は残しながら、車のガレージになっている家屋もあった。車社会を思わせるものだ。

天候も良くてこの日は小波が立つ程度だった。地元の人によれば、これでも沖に出れば荒れているそうだ。若狭湾の中のさらに入り江となった伊根湾。日本海の荒波から舟を生活を守るため、この地で舟屋を造りだしてきたのだ。

 

天橋立は松島、宮島と並んで日本三景の一つとされている。3.6kmの砂嘴で、宮津湾を二分し、内側を阿蘇海、外側を与謝海と呼ばれる。駅とは反対に位置する傘松公園の展望台から眺めると、湾にまさしく橋が架かっているように見える。幅約5mほどの道にはおよそ7000本の黒松の並木が続き、「日本の道」百選に選ばれている。しかし、浸食が進んで保全対策が必要になっているという。

端から端まで歩いて約50分の途中に名水百選の「磯清水」がある。周囲が海に囲まれているのにもかかわらず、地下およそ5mから湧き出す水はしょっぱくない。今では珍しくなった釣瓶式の井戸から汲み上げて、試しに口を付けてみた。全然しょっぱくなかった。不思議な味だった。この水は昔から「長寿の霊泉」とされているためであろうか。

「橋立の松の下なる磯清水 都なりせば君も汲ままし」(和泉式部)。平安時代から今日まで、この水は変わることなく続いてきたということだろう。

天橋立はすべて地続きではない。駅側には2箇所、橋が掛けられている。文殊菩薩が本尊の智恩寺近くの小天橋は廻旋橋で、舟が通行するとき90度回転する。この日は付け替え工事中で、臨時で運行していた、20mほど対岸まで一分もかからない渡船に乗った。

msotw9_temp0 msotw9_temp0

    伊根町舟屋          2002.3.3             磯清水         2002.3.3

<若狭湾めぐり 鵜の瀬の「お水送り」> 2002.3.2

近江今津駅からバスに乗ること30分、若狭熊川に着いた。ここはかつて若狭から京都へ主に鯖を運んだことから名づけられた鯖街道の宿場町だった。豊臣秀吉が権勢を振るった天正年間に、時の領主浅野長政が北川から導水し、街道に用水路を巡らしたことで発展したという。かつて造り酒屋は家屋に水を導水して利用したという。今も玄関前に設けられた「かわと」と呼ばれる洗い場で、勢いよく流れる水で野菜を洗っている姿が見られる。平成8年に上ノ町、中ノ町、下ノ町の三地区合わせた町並みが伝統的建造物群保存地区に指定された。

小浜線上中駅より歩いて15分のところに、名水百選に指定されている「瓜割の滝」がある。近くに天徳寺があり、水源地は注連縄で囲まれた神域である。古くから「水の森」といわれ、五穀豊穣、諸病退散の役があるとされていた。

あたりの岩や樹木は苔むし、その隙間から水が激しく流れ出している。瓜をつけたところあまりの冷たさに瓜が割れた、というところから「瓜割の滝」と名づけられたそうだ。試しに手をつけてみた。3月に入って、もう雪はなかったが、それほど冷たく感じなかった。おそらく湧き出した水がまだ外気に影響していないということだろう。ほぼ年中12℃で一定だということだ。水中の石には、この水質水温でしか生育しないという紅藻類が生育しているそうだ。つまりその生物を保全するには、この環境を保全しなければならないということだ。ここの水は協力金を300円で持ち帰りができる。少し口で飲んでみると、さっぱりとした味だった。

小浜線東小浜駅から南に歩くこと1時間で神宮寺に着く。ここが毎年3月2日修二会の後、6時から行われる「お水送り」神事の出発地となる。その舞台はさらに南に2kmのところにある遠敷川の川原である「鵜の瀬」である。鵜の瀬は名水百選に指定されている。「『東大寺要録』によると、二月堂創建の儀式に遅れた若狭の遠敷明神がお詫びに若狭から御香水を送る約束をすると、二月堂下の岩から白と黒2羽の鵜が飛び立ち、水が湧き出た」というところからこの神事が始まったという。遠敷川の岩の間と奈良の東大寺・二月堂近くにある「若狭井」の井戸まで地下でつながり、鵜の瀬で流された御香水が10日間で到達するといわれている。その水を汲み上げて、本尊に備える儀式である「お水取り」が、12日深夜二月堂で派手な籠松明の行事の後に行われるのだ。

日も暮れて寒さが増した20時半すぎ、神宮寺を出発した松明行列が鵜の瀬に到着した。松明が次々と川原に設けられた護摩火焚きに投げ込まれと、その火はどんどん勢いを増した。対岸では山伏姿の行者と白装束の僧侶によって祈祷され、竹筒に入れられた水が川に流された。科学的、物理的には有り得ないこととしても、若狭と奈良と場を隔てながらも、奈良時代から延々と続いてきた神事はロマンあふれるものだ。松明で暗闇の中に浮かぶ姿が、何かしら高揚した雰囲気を漂わせてくる。水を流す瞬間はさらに異様な雰囲気になった。

msotw9_temp0 msotw9_temp0

       瓜割の滝         2002.3.2          「お水送り」神事       2002.3.2

<敦賀・中池見湿原と越前大野・名水の里> 2001.9.5

 JR北陸線敦賀駅から歩いて30分。住宅と田んぼの風景を眺めながら入り口に着いた。山を上りきるとワァーと視界が広がる。中池見湿原だ。

 ここは昭和30年まで見られたなつかしい風景を保全することを目的にしている。かつて敦賀にあった築100年の茅葺の農家が移築され、狭いながらも田んぼもある。今日は数人の農家の人らが鎌で稲刈りし、穂かけ作業をしていた。コンバインで稲刈りされる風景に見慣れた私には新鮮な風景だった。

 江戸時代の新田開発で、湿田として開墾された。湿田は水を引く手間は省ける反面、稲刈りなどの作業は困難だ。そのため放棄田が増え、荒れ果ててしまっていた。そこに大阪ガスがガスタンクを建設する計画が持ち上がった。地域住民の反対運動の結果、できたのがこの『人と自然のふれあいの里』だ。案内所やガイドも充実し、木道には滑り止めがあり、雨の日でも車椅子でも安全に行ける。見下ろすと、まじかに植物や魚を観察できる。私の目前を蛇が横切ったときには驚いた。

 しかし中池見湿原全体から見れば、整備されているのはほんの一部だ。その残りがこの先どうなるのかはわからない。昔からあったような板切れの木道は一般の立ち入りを制限している。湿田として人が水路を管理することで、メダカなどの魚も育ってきた。荒れ果てていけば、ヨシなどの高い草が伸び、下草も育たなくなり、植生も単調になるだろう。それでも、ガスタンクを造るよりはましだと思う。

 

 福井駅から九頭竜線で約一時間の越前大野市は「名水の里」として知られている。小高い亀山の頂きにある越前大野城の天守閣(昭和43年に再建)から眺めると、街が山に囲まれていることがわかる。そのおかげで地下水が豊富で至る所に湧水池がある。その一つが昭和60年に環境庁(現在は環境省)の「名水百選」に認定された「御清水」(おしょうず)だ。江戸時代には城下の生活用水の水源になったことから「殿様清水」とも呼ばれた。地下から水が湧き上がってくる。飲んでみるとさっぱりした味だった。飲料水、野菜洗い場、洗濯場と区分されている。長さにして20m。水道が普及した今では使われることはなさそうだが、掃除当番を決め、地域の人らで守っているのがわかる。江戸時代の上水路は生活排水路に変わったが、その排水は都会と違って澄んでいる。

平成20(2008)年には「平成の名水百選」に選定された「本願清水」(大野市糸魚町)には、昭和9(1934)年に国の天然記念物に指定されたイトヨが生息している。イトヨは清涼で冷たい水に住む、体長5cmの小さなトゲウオの仲間だ。ここは陸封型(海に下らない)の最南端の生息地とされ、ここの豊富な地下水がピッタリだったという訳である。「イトヨの里」として整備され、学習施設もある。館内ではなんと湧き水を飲むことができた。

他にもいくつか清水はある。しかし、最近その危機を訴える記事が出た。週刊朝日(2001.8.10号から8.31号まで)に三回シリーズで、「『水の里』大野の危機」(高杉晋吾)が連載された。それによると、上流にある中竜鉱山跡に、ダイオキシンの問題がある焼却灰が埋め立てられていること。有害物質を含んだ鉱滓がそのまま放置されていること。それらが地下水汚染を引き起こすのではないか、というものだ。これまでにも大野市では有機溶剤の地下水汚染が問題になったこともあり、地下水対策は全国的にも厳しいものだ。しかし、一時的な汚染とは違って、恒常的に汚染となると、対策はさらに困難になるに違いない。予防原則から早い対策をとるほうが良いだろう。

msotw9_temp0 msotw9_temp0

   御清水    2001.9.5     イトヨの里   2001.9.5

JR中央線から大糸線水の旅> 2001.8.14−15

 JR中央線須原駅から降りると、中山道木曽11宿の一つとされた須原宿がある。江戸時代には木曽川沿いに本陣、問屋、十数軒の宿、茶屋が軒を連ねていた。1715(正徳5)の大洪水で流出し、1717(享保2)に高台に移転し再建され、今の町並みになっている。今では所々に古風な家屋がぽつんと残っているだけだが、「須原宿」と書かれたぼんぼりにかつての面影があるようだ。

なかでも木曽ヒノキの中身をくり貫いて造られた「水舟」がいい。裏山の豊富な水を導水しているそうだ。スイカを冷やしている光景に生活が感じられる。昔も生活に利用され、旅人ののどを潤したのであろう。

                                       

切り立った巨大な岩石の間を水が流れる木曽川の風景が、車窓から目に入る。上松駅から30分ほど歩いたところにある「寝覚の床」だ。

訪れてみると、10数mもあるような岩石に圧倒され、切り立った岩盤の上から川面を見下ろすと目がくらんだ。

これは、水の浸食作用で花崗岩の岩盤を長い年月をかけて削り取られたもので、垂直方向と水平方向にある方状節理(割れ目)やポットホール(甌穴)は全国的にも代表的なものとされている。

水力発電のために水量が減少し、かつて木曽ヒノキが河口の名古屋まで流されるほどの激流だったという昔の面影はない。所々水が淀んでいる。それが残念だ。

msotw9_temp0 msotw9_temp0

      寝覚ノ床        2001.8.14       奈良井宿  2001.8.14

 鳥井峠を越える長いトンネルを抜けると、突然雨が降ってきた。奈良井宿のある楢川村は鳥井峠(1197m)、権兵衛峠、姥神峠、牛首峠に囲まれている。奈良井宿に沿って流れる奈良井川に「木曽の大橋」が架けられている。全長33m、幅6.5mの天然の総木曽ヒノキ造りだ。大阪の住吉神社の反橋(太鼓橋)を大きくしたようである。

鳥井峠は木曽川と信濃川へ流れ込む川の分水嶺になっている。言うなれば太平洋と日本海を分ける中央分離帯のようなものである。奈良井川は信濃川に流れ込み、塩尻市松本市の水資源となっている。

奈良井宿は江戸時代、中山道67宿の一つとされ、難所だった鳥井峠越しの休息地として繁栄し、「奈良井千軒」といわれるほどだった。かつての石置きの屋根の家屋はもうないが、鉄板葺きの屋根の町並みが数百メートルにも渡って残っている。昭和53年に「国選定重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。明治天皇が宿泊した上問屋資料館があり、民宿もあり昔の宿気分を味わえる。

そのなかでも生活用水、消防用水、旅人ののどを潤した「水場」が6箇所整備されている。飲んでみると、大阪人の慣れた生ぬるい、塩素臭さの残る味とは違い、ひんやりとしたさらっとした味だった。やはりこれが「水」なんだと思う。

 

 大糸線南神城駅から歩いて20分ぐらいのところに姫川源流地がある。白馬盆地の南端から糸魚川市を経て日本海へ注ぐ、全長58km、流域面積742平方km、最大川幅450mの河川である。R148から少し脇に入った林の中にそれはあった。

 テニスコートほどの広さの苔むした湿地から水が湧き出している。湧水が小川になり、バイカモの小さな花が水流に漂うように咲いていた。4月中頃には福寿草が咲き、ミズバショウも咲くそうだ。水に触れると、ひんやりとしている。

 しかし、上手のほうは水が湧き出していなかった。湧水が減れば、しだいに乾燥してくるだろう。植生も変化し、草原に覆われるようになるだろう。地表からの湧水を間近に見られるのは全国的にも珍しいそうだ。そんな貴重なものを無くさないためには、地域の開発は避けなければならない。

 この近くには親海(およみ)湿原がある。以前は湿田だったものが放棄され、今のようになったそうだ。標高745mのここには水田に生える雑草から低層、中間層、高層の湿原性の多様な植生が広がっている。木道を歩いていると、ぴょんぴょん跳ねる音がした。カエルが次々と水路へ飛び込んでいたのだ。豊かな生態系がある。

msotw9_temp0 msotw9_temp0

姫川源流 2001.8.15    大王わさび農場     2001.8.15

 穂高はワサビの産地である。全国の半数を生産している。それを支えるのが、豊富な清涼な水だ。穂高川、万水川、犀川の豊富な水だけでなく、地下水の湧水が豊富なのだ。川の流れとは別に、この辺りの地下水は、安曇野の西側にそびえる北アルプスの雪解け水だけでなく、南北100km。東西50kmの広範囲の水を集めているという。そのおかげで豊富な清涼な水に恵まれている。

 穂高川に沿って、ワサビ田が広がる。つくり方は色々あるようだが、ここは砂づくりで、あぜに水温13℃の水を内外から流し込んでいた。

 また、黒澤明監督の映画『夢』のロケ地にもなった、大王ワサビ農園を訪れた。ワサビを生産した観光地で、お土産も豊富だ。ここの名物であるワサビのソフトクリームを食べてみた。練りワサビとクリームを混ぜたような色だったが、味はワサビの辛さもなく、さらっとした甘さがした。

 映画の舞台となった、水車小屋は万水川のそばにあった。今日(8月15日)の川は少し濁っていた。例年はもっと透明度があるそうだ。雨が少ないためだろうか。その水車を前にして、映画では老人(笠智衆)が旅の青年(寺尾聡)に語りかけるシーンがあった。「まず人間に一番大切なのは、いい空気や自然や水。それをつくり出す木や草なのに、それは汚され放題、失われ放題。汚された空気や水は人間の心を汚してしまう」

 ここに佇んでいると、ふとそんな言葉が口に出てしまう。