水めぐりの旅
弘法大師ゆかりの水
目次
<JR和歌山線の弘法井戸> 2005.3.12
<JR四国予讃線の弘法ゆかりの水> 2005.3.2−3
<氷上の独鈷の滝と神戸の弘法井戸> 2005.1.17
<東寺の灌頂院と泉湧寺> 2004.4.21
<JR紀勢線の弘法井戸> 2004.4.8
<加茂(京都府)の二つ井> 2004.4.8
<和歌山の弘法井戸と弘法湯> 2004.3.28
<俄山(にわかやま)弘法の水> 2004.3.21
<熊野(ゆや)の清水> 2004.3.11
<下鴨神社ひな流しと神泉苑> 2004.3.3
<天王山から柳谷観音楊谷寺へ> 2004.2.17
<富田林寺内町から石川、滝谷不動へ> 2004.1.28
<伊勢志摩・弘法の井戸めぐり> 2004.1.5−6
<寝屋川市内の弘法の井戸> 2004.1.1
<秦野・弘法の清水と富士宮・浅間神社・湧玉池> 2003.9.4
<弘法の池と手取川> 2002.8.21
<黒部川扇状地湧水群> 2002.8.20
<JR和歌山線の弘法井戸> 2005.3.12
JR和歌山線名手駅から南へ歩くと紀ノ川が流れている。麻生津橋を渡ると高野山へと至る麻生津(おうづ)道(西国街道)の案内板があり、ポイントごと見ながら急坂を登っていく。その途中、「ハイタ地蔵」の左横に奥行5mほどの小さな横穴から水が湧出していた。
さらに登った那賀町赤沼田(あかんた)に「大師の井戸」がある。弘法大師が水を所望すると老婆が遠くまで汲みに行くのを同情して加持により湧出させた、との伝説が残っている。屈曲した杉の根元からわずかに水が湧出していた。小さな祠の上にはサザンカが咲いていた。その横には今風のコンクリートの丸い井筒があった。
山間の斜面にある集落は町の簡易水道の普及で水に困ることはなくなったものの、今も農業用水に利用されている井戸が多い。
大師の井戸 紀ノ川
粉河駅から歩いて約20分、R24沿いのバス停「高野辻」の脇道を北に少し入った道路沿いの窪地に「大師の水」(粉河町東野)がある。紀州の名水100選に指定されている。ステンレスの蓋がされた井戸の中を覗き込むと、セメント製の径1m足らずの井戸型で50cmほど下に澄んだ水を湛え、水底には丸石が敷かれていた。案内板によれば、その昔金気の強かった水を弘法大師が杖を突いて真水を湧出させて以来涸れることなく湧き出しているという。
粉河町の弘法井戸 花野の弘法井戸
打田駅から南へ歩くと県道に出る。そこを西へしばらく行くと、県道から少し下った坂道に「出水」と呼ばれる「弘法井戸」(打田町花野(けや))がある。お堂に小さな弘法大師像と木の蓋のされた井戸がある。粉河町の弘法井戸より少し小ぶりだが水は透き通っていた。ここにも大師が錫杖で突いて湧出させた、との伝説が残っている。
<JR四国予讃線の弘法ゆかりの水> 2005.3.2−3
JR西条駅のホームに「水の都西條」の石碑と水場がある。西条市内には「うちぬき」といわれる自噴水がおよそ200か所ある。石鎚山(標高1982m)を水源とする加茂川の伏流水が浸透した地層にパイプを打ち込むと地圧で噴出する。市役所の近くにはその代表として環境庁名水百選に指定された「うちぬき」がある。口をつけるとまろやかな味だった。生ぬるく感じたのは冬季でも年中15℃前後の地下水であるためだ。
また旧西条藩陣屋の堀割に開削された本陣川河口で東予港の入り口に、西条市名水・名木50選に指定される弘法水がある。そこには弘法大師が杖の先で突くと清水が湧き出したとの伝説が残っている。口をつけてみると全く塩気がない。海底の地中から清水がそのまま湧き出していた。水だけでなく港や家屋も見守るように弘法大師像が鎮座している。
うちぬき 弘法水
JR伊予三芳駅から西へ約15分歩いた楠(東予市)に「臼井大師堂」が道路沿いの窪地にある。小さなお堂の前に径50pほどの石製の丸い井戸枠に水が湧き出し、透き通った水底では小魚が泳いでいた。その様子からお堂の下が水路となっているようだ。流れ出す池は少し濁っているがコイが泳いでいた。弘法大師が杖を突き立てて念仏を唱えると水が湧出した、との伝説があり、臼の形の井戸枠から「臼井水」「臼池」と呼ばれて守られてきた。
伊予鉄道鷹の子駅から南へ約30分歩くと四十八番札所西林寺がある。その寺伝には弘法大師が干ばつに苦しむ村人のもてなしに感激して錫杖で突いて水を湧出させたとされ、その一つが南西に少し離れた所の「杖ノ淵」で奥の院となった。環境庁名水百選に指定され、杖ノ淵公園は児童公園などを併設した都市公園として市民の憩いの場になっている。
池は周囲100m足らず、水深1mほどの池底から重信川の伏流水が湧出する水はブルースカイ色で澄んでいる。その一角に弘法大師像が鎮座している。池から流れ出す小川はコイとマスが一緒に泳ぎ、天然記念物の「テイレギ(学名オオバタネツケバナという越年草)」が黒いシートで覆われて保護育成されている。公園の隣地には「全国名水百選」の水場があるが、個人所有で会員制となっている。水源の保全のためには仕方がないのかも知れない。
臼井水 杖ノ淵公園 八十蘇場の清水
JR八十場駅から歩いて10分ほどのところに「八十蘇場の清水」がある。お堂の横にある水場は、谷水の流れる苔むした石の水路の流口の上に小さな地蔵が鎮座している。景行天皇の御代に88人の軍兵らが童子の捧げるこの水で蘇ったという伝説が残り、古来より薬水として尊ばれてきたそうだ。干ばつでも涸れることなく湧き出た清水のおかげで、水場の隣には創業200余年になるというトコロテン屋が店を構えている。3分ほど歩いた七十九番札所天皇寺には、弘法大師がこの泉を通った時に霊気を感じて刻んだといわれる本尊(十一面観世音菩薩)が安置されている。
<氷上の独鈷の滝と神戸の弘法井戸> 2005.1.17
JR石生(いそう)駅からバスに乗り、香良口から約20分歩いた山麓に岩瀧寺や兵庫観光百選にも指定される「独鈷の滝」がある。その滝は落差約20mで、「弘法大師が大蛇を退治するために密教の法具である独鈷を滝壷に投げ入れた」という伝説が残っている。滝から階段を登ると浅山不動尊がある。洞窟に弘法大師が作ったといわれる不動明王像が祀られている。さらに五台山への登山道を少し登ったところに「不二の滝」がある。
周辺の山は中央分水界にあたり、この滝の水は加古川へと流れていく。
独鈷の滝 不二の滝
石生駅から約10分歩くと水分(みわか)れ公園がある。日本海と太平洋・瀬戸内海に分ける中央分水界は本州で延長約1800kmある。この公園は標高95mの日本一低い中央分水界で、その延長約1250mの最東端にある。一方(写真左へ)は高谷川、柏原川、加古川を経て瀬戸内海へと注ぐ。もう一方(写真右上へ)は細路を集めて黒井川となり、竹田川、福知山市で由良川と合流し、京都府を流れ日本海へ注ぐ。高瀬舟が加古川や由良川を往来し、氷上地方はこの地理的条件を利用して瀬戸内と日本海を結ぶ中継地として栄えたという。
水分れ公園 妙法寺の弘法井戸
須磨区妙法寺地区を流れる妙法寺川沿いから少し山手に入った住宅街の一角に弘法の井戸がある。飲み水に困っている村に弘法大師が杖を突くと水が湧き出たという伝説が残っている。1×3mの長方形で浅い井戸で水の流れはない。3本の長い柄杓が備えられ、「水を飲れる方は沸かして飲んで下さい」との注意書きがある。周辺は山を削って宅地開発されたようで、土砂崩れ防止のコンクリートの絶壁がある。その影響で水脈が乏しくなったのかもしれない。
<東寺の灌頂院と泉湧寺> 2004.4.21
毎月21日の「弘法の日」は、東寺は露店が並び参拝者で賑わう。境内にある「灌頂院」は4月21日のみ特別に公開され、法要が営まれる。その中に堂に守られた「閼伽井」がある。格子から中を覗くと暗くて石垣が見えるだけだ。北に3kmほど離れた神泉苑の池と通じている、という伝説が残る井戸だ。
灌頂院の閼伽井 独鈷水
東山にある泉湧寺は弘法大師が庵を結んだことに由来している。1218年に大伽藍を造営した際、寺の一角から清水が湧き出したことから「泉湧寺」と改めたという。その歴史ある水は立派な屋形に守られている。今も水が湧き出しているというが、この日は水の流れはなかった。屋形の補修工事をしているためだろうか。
泉湧寺に隣接した来迎院には弘法大師独鈷水がある。本堂脇に弘法大師像が鎮座した小さな祠がある。その祠下の観音扉を開けると、崖下から水が湧き出している。横井戸となっており、中は奥深くて薄暗い。備えられた長い柄杓で水を掬い取って味を見た。少し甘かった。「赤穂浪士の討ち入り」で有名な大石良雄がこの水を愛で含翠軒を建てたといわれており、14日の「浪士を偲ぶ茶会」でこの水を使うそうだ。
<JR紀勢線の弘法井戸> 2004.4.8
三重県を走るJR紀勢線佐奈駅から北東に30分ほど歩いたところの、和歌山別街道沿いの街角(多気町仁田)に「二つ井戸」がある。そばには小さなお堂がある。案内板には「弘法大師がこの地へ立ち寄り水を所望されたとき、水の便が悪いと聞き、杖で地面をたたくと水が湧き出した。澄んだ水を飲用に、濁った水は洗いものに使うように言われた」とある。大小2つの井戸に流れ込む水は汚水も混じっているのだろう。水はドロンとしている。井戸には多くのコイが泳いでいる。水を浄化してくれているコイは、現代の「弘法大師」といえるかもしれない。
二つ井戸 弘法井戸
隣の駅の栃原駅から歩いた。度会(わたらい)町は伊勢茶の「わたらい茶」の産地で茶畑が広がっている。歩くこと1時間ぐらいで「弘法井戸」(度会町田口)があった。崖下にあるお堂の石垣の下から湧き出した水が2m×3m、1m×1.5mの井戸に注いでいる。この日は桜が咲き乱れ、花びらが水面に浮かんでいた。人の姿はなかったが、「冬場は暖かく夏は冷たく、現在も地域住民の洗い場に活用されている」ということだ。
<加茂(京都府)の二つ井> 2004.4.8
JR大和路線(関西線)加茂駅から北へ歩いていく。木津川に架かる恭仁大橋を越えて右折し、和束川に架かる菜切橋の脇に「二つ井」(加茂町井平尾)がある。その昔、井戸を守る樫と柏の木があったところから「樫の井」と「柏の井」と呼ばれている。
道路下にある「樫の井」は崖下から湧き出した水が3槽に区切られた井戸に注いでいた。洗いものをしていた女性に聞くと「昔は飲めた。今は下水が混じっている」ということだ。頭上を頻繁に行き交う車を見れば、確かに水質は心配だ。
樫の井 柏の井
「樫の井」から少し奥に入ったところに「柏の井」がある。同じように崖下の石垣から湧き出し、「樫の井」より少し大ぶりで1×0.5m、2×0.5m、1×0.5mの三槽に区切られ、和束川に注いでいる。この先で木津川と合流している。そばには弘法大師が菜を切って洗ったという伝説の「弘法大師○○菜切石」と刻印された石碑がお堂の中に鎮座している。井戸の当番表を見ると、月二人で交代しながら地域住民が守っていることがわかる。
<和歌山の弘法井戸と弘法湯> 2004.3.28
JR紀勢線湯浅駅から北に歩くこと約30分、みかん山に囲まれた一角に「弘法井戸」がある。弘法大師が杖で突くと湧き出したという伝承が残っている。熊野古道沿いにあり、かつては熊野詣での旅人がこの井戸でのどを潤したそうだ。しかし現在、水は枯れ果てお堂で守られた井戸が佇んでいるだけだ。残念なことに案内板も割れていた。
みかん山を少し下ったところに、逆川王子跡とされる逆川神社がある。藤原定家が「水が逆流しているので、この名がある」と日記に記しているように、海のある西へとは逆流しているところから「逆川」呼ばれたということだ。その川は工場の裏手にある幅1mほどの川だ。案内板には、「後年『吉川』」改められ、この地名にもなった」と記されていた。
弘法井戸 弘法大師堂 橋杭岩
国の名勝天然記念物に指定されている橋杭岩(串本町)の近くに「弘法湯」(古座町)がある。弘法大師堂の背後にはお堂より巨大な岩がそそりたっている。弘法湯はその脇下にある。水際から数mの崖上にあるためだろうか、泉質は塩分のない単純泉だ。窓から太平洋の海原を望むことができる小さな浴槽が2つあり順番に入る。この日もすでに待っている人がいた。姫地区の住民の健康増進を図るコミュニティー浴場として利用されている。(入浴料大人300円、利用日火・木・土・日)
病に苦しむ村人が夢の中で、雲水が杖で指した所から湧き出している湯は万病を癒やすとのお告げあった。目覚めると大岩の割れ目から湯が湧き出していたという。それを飲み、湯に入ると病が治ったことから、この大岩を「弘法岩」(クツヌギ岩)、温泉を「弘法湯」と呼ぶようになったと伝えられている。
橋杭岩はその大岩から連続して十数の巨岩が海岸線に並び立っている。地質学的には周囲の泥岩に対して固い火成岩でできた岩脈が浸食されず残ったものだが、この岩には弘法大師のおもしろい伝説が残っている。天の邪鬼(あまのじゃく)が熊野を訪れた弘法大師に一晩で大島まで橋を架ける競争を申し込んだところ、天の邪鬼が完成まじかに迫った大師の邪魔をしたため橋桁の大岩だけが残ったという。
<俄山(にわかやま)弘法の水> 2004.3.21
広島県福山市市街地から北西に5q離れた津之郷町がある。その山間に俄山弘法の水がある。山陽自動車道福山SA近くの高速道に架かる弘法大橋を越えてしばらく歩くと、ひっそりと佇んだ寺がある。境内には紅梅が咲いていた。水は背後にそびえる高増山(399m)の山裾から湧き出している。「御霊水」と刻印された給水栓をあけて柄杓で飲んでみると、わずかに甘かった。
境内の近くを流れる谷川に立つ案内板には「山伏が人を斬った刀をこの谷川で洗ったことから、この水を飲むと腹痛をおこし人々が苦しむのをみた弘法大師が霊水を出して救ったという伝説があります」とあった。以来この水を「弘法の水」といわれ、胃の病気などの効くと利用されてきた。そして代々周辺の住民らで「遺徳会」を結成して今も守り続けている。その「保全費」として10リットルで100円を治めることになっている。
<熊野(ゆや)の清水> 2004.3.11
JR外房線茂原駅から大多喜行きバスに乗って約30分、「市野々」バス停から徒歩5分ぐらいで熊野(ゆや)神社に着く。室町時代に鶴岡八幡宮の社領だった頃、神社直営の湯治場があり、湯谷(ゆや)と呼ばれたところから地名の由来になったということだ。
神社の崖下に環境庁の名水百選に指定されている熊野(ゆや)の清水がある。瀧の不動尊が祀られた小さなお堂下から懇々と水が湧き出し、丸太をくり貫いた2本の木樋で導水されている。直径3m、水深20cmほどの透き通った泉は川砂が敷かれて、コイが泳いでいる。
この水は弘法大師が訪れた際、水不足で苦労していた農民たちのために法力で湧出させたと伝えられる「弘法の霊水」で、以来日照りにも涸れることなく飲用水として恩恵を受けてきた。今は残念ながら、水道法による水質基準には適用しておらず、飲用するには煮沸が必要だ。清水の周辺はなだらかな丘陵地でゴルフ場が多い。その影響も心配される。
午前8時ごろに訪れた時には、近隣の住民がお堂の周りを掃除していた。長年、清水が守られてきたのもお大師信仰によるところが大きい。病気の治癒や受験祈願などに霊験があるとされ、参拝者も多い。
<下鴨神社ひな流しと神泉苑> 2004.3.3
世界文化遺産に指定されている下鴨神社(賀茂御祖神社)の御手洗池で毎年3月3日に「ひな流し」が開催されている。御手洗池の前には十二単(ひとえ)衣の「おひな様」が並ぶ。「女ひな」の十二単は10枚で約15kgもあるそうだ。11時過ぎに始まった神事に続いて、「おひな様」がわら製の小さなお皿に乗ったおひな様が子供の成長を願いながら次々と玉石の敷きの水深20cmほどの御手洗池に流した。そのそばにある瀬織津姫を祀った摂社御手洗神社の下の井戸から水が湧き出している。この日は風向きで川の流れに逆らっていたが、この水は「糺(ただす)の森」の中に再生された御手洗川へと流れていく。ケヤキ、ムクノキなどの落葉樹が多いこの森は、鴨川と高野川の合流地に位置し、「只洲(ただす)」と称されたことがその由来とされる。
御手洗神社 ひな流し 神泉苑
二条城の南側にある神泉苑は桓武天皇が平安京造営で大内裏の脇に設けた苑地である。ここには、天長元(824)年に干ばつで東寺の空海と西寺の守敏が雨乞いの祈祷比べをし、空海が雨と水の神である善女竜王(ぜんにょりゅうおう)をインドから招請して、雨を降らせたという伝説が残っている。この他にも小野小町が雨乞い祈願を詠うなど雨乞いの伝説が多く残っている。
願いを念じながら渡ると叶うという朱色の太鼓橋を渡ると、放生池(ほうじょうち)の真中に善女竜王が祀られたお堂がある。悪霊、疫病、厄を払い、清泉によって五穀豊穣、商売繁盛、子孫繁栄、恋愛成就があるそうだ。
かつては南北四町、東西二町(一町は約109m)の広大だった神泉苑も二条城の造営で縮小された。南に3kmほど離れた東寺で毎年正月に行われる「御修法」では、水を汲む「御水取り」が行われる。以前は神泉苑の善女竜王閼伽井の水を柄杓で七杯半汲んで、御香水としていたそうだ。今では東寺の「灌頂院閼伽井」の水を汲んでいる。その井と神泉苑の池が通じているそうだ。それも伝説に過ぎないのかだろうか。水の流入がないためかなり濁っている。
<天王山から柳谷観音楊谷寺へ> 2004.2.17
JR山崎駅の北にそびえるのは、天正10(1582)年に羽柴秀吉と明智光秀軍の合戦で有名な天王山(270.4m)である。京都(山城)と大阪(摂津)の境界地として、古来から軍事と交通の要衝とされた。今でも淀川と挟む狭い平地に、阪急とJR在来線と新幹線がほぼ並行に走っている。山頂へのハイキングコース途中の展望台からは淀川が臨め、遠くには梅田の高層ビル群が見える。また重文の金剛力士像のある宝積寺、酒解(さかとけ)神社などが点在している。
柳谷観音楊谷寺(ようこくじ)は天王山山頂からさらに北に3.5km歩く。京都清水寺を開祖した延鎮が開祖とされる。境内には「独鈷水(おこうずい)」がある。ここで空海(弘法大師)が修行され、境内の岩穴から湧出した水を加持祈祷し眼病平癒の霊水とされてきた。毎月17日は縁日で参拝者が多いため、寺の人が汲み出してくれていた。平素は木の蓋をとって井戸から汲み出すが、汲んでも水面位は変わらないそうだ。
独鈷水 神徳水
ほかにも境内には「名水」がある。しかし「神徳(みのりの)水」は流れていない。手ぬぐいに水を浸して顔をぬぐうといい「弁天井水」は水道栓をひねると竜の口から水が流れる仕組みとなっているが流れ出ない。
帰りは長岡天満宮に立ち寄った。ちらほらと梅が咲き始めていた。
<富田林寺内町から石川、滝谷不動へ> 2004.1.28
近鉄富田林駅から東へ少し歩くと、戦国時代に興正寺別院を中心に作られた寺内町だ。その中で有名なのが詩人石上露子の生家で、国の重文に指定されている旧杉山家だ。格子窓の家屋が点在する町並みを歩いていると、道路面に「背割り水路跡」と記された碑がある。当時、家屋の裏を背向かいに排水路が流れていたそうだ。石組みの溝がその面影を残しているようだ。
寺内町の東には、岩湧山を源流とし南河内の水を集水している石川が流れている。川堤を歩いていると、サギやセキレイを見かけた。この日はたまたまだったのかカワセミも見かけた。高橋から東に行くと滝谷不動だ。毎月28日が縁日となっており、この日は初縁日で露店が軒を連ね、参拝者が多かった。
滝行場 身代わりどじょう 大師井 2004.1.28
滝谷不動明王寺は弘仁12(821)年に弘法大師が開創したと伝えられている。境内には「御加持水」がある。この水は境内から東へ200m離れた「大師井」から汲み出されたものだ。小さな堂の「大師井」の脇からポンプアップされ、大量に汲みだす人が利用している。境内の案内板によれば、この水は眼病などの諸病の平癒に効能があるとして「おこうずい」として尊ばれてきた、という。
高さ3mほどの一筋の水が流れ落ちる滝がある。不動尊が鎮座し、「行場」の厳かさがある。滝から流れ出している小川に参拝者が筒からドジョウを流していた。これは「身代わりどじょう」といわれ、これで厄を流しているそうだ。
かつて滝谷不動は少し離れた嶽山(がくさん)にあった。現在そこには富田林簡易保険保養センターがあり、地下1200mを源泉とする天然温泉がある。ここの露天風呂から葛城、金剛山系の山並みが良く見える。この日の金剛山頂はうっすらと雪化粧していた。
<伊勢志摩・弘法の井戸めぐり> 2004.1.5−6
近鉄電車とバスを利用して伊勢志摩地方に多く残る「弘法の井戸」をめぐった。
まずは鳥羽市にある中之郷駅から南へ10分ほど歩いた鳥羽4丁目にある「弘法井戸」を訪れた。それは道路面から約1.5m低い汚水が流れる排水路の一角にあった。「弘法井戸」と刻印された碑の横にある祠の中に石像が安置され、井戸があった。中を覗き込むと壁の隙間から水が流れ込んでいた。水は濁っていないのを見れば、汚水ではないようだ。しかしその水と排水が混じる排水路は暗渠化されていた。
弘法大師がこの場所に杖を突き刺して去ったあと清水が噴出するようになった、という伝説がある。旱天のときでも涸れることなく村人の用水となった。昭和30年ごろまで飲み水や生活用水にも使われていたそうだ。
海辺の浜島町は近鉄鵜方駅からバスで20分足らずだ。大矢の浜にある高さ3mの防潮堤の鉄扉の内側に「弘法の井戸」がある。碑も祠もなく弘法大師ゆかりの井戸とは全くわからない。1×2mほどの大きな井戸は開閉できるトタン屋根で覆われている。あげて中を覗き込むと、石垣の壁で底は玉石が敷かれていた。水は少し濁っているようだった。
この井戸に残る弘法大師伝説は、海辺に近くて真水の出る井戸が少なくて困っていた村人に、お坊さんが杖を突き刺して水の出る場所を教えたところ、掘ってみると水が懇々と湧き出した。そのお坊さんが弘法大師だった、といわれるようになったということだ。
鳥羽市の弘法井戸 浜島町の弘法井戸 河芸町の弘法井戸
近鉄豊津上野駅から西へ10分ほど歩いた河芸町上野に弘法井戸がある。民家が連なる旧道沿いの建物の中にあった。奥には弘法大師像が安置された堂がある。井戸は蓋がされており、蓋を上げて中を覗き込むと水は濁っていた。
井戸の由来が書かれた額には、立ち寄った弘法大師に差し上げるために清らかな水を遠くまで汲みに行った所、赤水しか出なかった井戸から清らかな水があふれ出るようになった、という。それ以後「弘法井戸」と称され、伊勢街道を歩く旅人ののどを潤したということだ。また1960年に町営の上水道がつくまでは生活用水として利用されていたが、今では全く利用されていないということだ。しかし木枠で井戸を守り、大師を祀るお堂には花が供えられているのを見ると、地域でしっかり守られていることがよくわかる。
<寝屋川市内の弘法の井戸> 2004.1.1
寝屋川市内には4ヶ所の弘法の井戸がある。
JR東寝屋川駅から北へ歩いて5分ぐらいの打上地区に「打上の弘法井戸」がある。道路沿いに石像を安置した小さな祠の下にある。よく見ないと見逃されてしまうほどだ。今は水溜りのようだが、かつては日照りが続いても涸れることはなかったという。そして東高野街道の道端にあり、高野山詣でをする人らののどを潤したという。
打上の弘法井戸 国松の弘法井戸
国松地区には「国松の弘法井戸」がある。フェンスで囲まれた井戸にはかつての釣瓶の車輪が残っている。そばには小さな石像が祀られている。
そばを流れる打上川が合流する寝屋川の川堤から下ると「田井の弘法井戸」がある。縦2m90cm、横2mで市内にある弘法井戸では最大である。この井戸には典型的な弘法伝説が残っている。この地にやってきたお坊さんに水はないと断ったところ、そのお坊さんが杖をつきたてると水が涸れることなく湧き出し、そのお坊さんが弘法大師だったというものだ。
田井の弘法井戸 湯屋が谷の弘法井戸
郡地区には「湯屋が谷弘法井戸」がある。そばには立派な大師像や大師堂がある。その昔、崖下から湧き出した水は村人の貴重な飲み水だった。現在は地域の代表者の組合が井戸の維持管理している。ポンプアップした地下水の利用は地区内の利用者に限定されてはいるものの、水が利用できるのはここだけだ。
300年前に付け替えられた大和川がこの付近で淀川に合流していた。淀川河川敷には、日本書紀に最初の堤と記される「茨田堤」の碑が残っている。もともとこの付近は低湿地で氾濫を繰り返していた。今でも寝屋川は天井河川である。急激な都市化で農地や山林、ため池が減少し、保水・治水能力が低下した。そのため普段は公園だが、大雨で氾濫すると水が溜まる仕組みとなっている遊水地が設けられている。それが「打上川治水緑地」だ。
<秦野・弘法の清水と富士宮・浅間神社・湧玉池> 2003.9.4
小田急線秦野駅から歩いて5分ぐらいの住宅街の中に「弘法の清水」がある。懇々と湧出する水は冷たい。タオルで浸して、真夏の汗を拭うとヒンヤリとして気持ちがいい。訪れる人は見かけなかったが、きちんと整理された水場をみると、住民によって大切に守られていることがわかる。
丹沢に降った雨が水無川上流で地下に浸透して、秦野盆地地下に溜まった水が「弘法の清水」のほかに市内で自噴している。これらまとめて名水百選に指定されている。
秦野市の弘法の清水 水屋神社と湧玉池
富士山を御神体とする浅間神社には、国の特別天然記念物に指定されている湧玉池がある。
富士山の雪解け水が溶岩に浸透し、神立山の山裾から湧出した水が、御井神、鳴雷神を祀る水屋神社の横から導水され、小さな堂内を巡った水が池となっている。3.6kl/秒、水温13℃とされ、水はかなり透明度が高い。カモなどの水鳥がスイスイと流れと戯れている。古来から富士道者はこの清澄な池で清めてから富士山に向かったということだ。
この池の水は境内から出ると神田川(一級河川)として富士宮市内を流れる。川幅3mほどだが水の勢いがすごい。水屋神社から湧出している量とは比較にならない。ということは池底など湧玉池全体から湧出しているということだろう。富士山がもたらす水の豊かさを示しているようだ。
<弘法の池と手取川> 2002.8.21
北陸鉄道鶴来駅からバスに乗り、釜清水のバス停で降りてすぐ、弘法の池がある。住宅から林に入る一角に、直径70cmほどの釜のような丸い穴から水が懇々と湧き出している。別名「釜清水」ともいわれる由縁だ。底は2m足らず、一日30トンほどの湧水があるそうだ。その底からポンプアップされ、蛇口から水が汲めるようになっている。近所の人が手軽においしい水を汲みだしていた。
「弘法大師が手取川の深い谷より水を運ぶ苦難を哀れみ、この甌穴の底を杖で突き湧水を促された」と案内板にある。大昔、この辺りは近くを流れる手取川の川床で、流下している岩石や礫で底が削られて、このような甌穴(ポットホール)が自然に形成された。しかし水が湧き出す仕組みは詳しくは解明されていない。全国至る所にこのような弘法大師にまつわる伝説が残っている中、ロマンがあっていい。傍らには弘法大師像があり、絶えず見守っているようだ。
弘法の池 綿ヶ滝と手取川渓谷
ここから少し上流は手取川渓谷といわれ、垂直に切り立った断崖絶壁が連続している。その断崖から水が滴り落ちる滝がいくつもある。その中で最大なのが、落差32mの綿ヶ滝である。「綿を千切って放下されるさま」から名付けられたように、駿馬川から手取川の断崖を、水しぶきを上げながら落ちていく。川面は霧のようにかすんでいた。
霊峰2702mの白山を水源とするのは、福井県を流れる九頭竜川、富山県を流れる庄川、そして石川県を流れる手取川だ。手取川は加賀平野を潤すのと同時に、豊富な水と急流を利用して県下一の水力発電量を誇っている。
地下水が豊富な下流の美川町には、「すいはの水」といわれる名水がある。これは個人の観音信仰で造られたものだ。屋敷の玄関前には「奉納」と書かれた大きな幟が立ち、小さな祠がある。そして地下水を汲んで、竹筒から水がチョロチョロと絶えることなく流れ出している。「水は命なり、命は水なり」と看板があるように、その人の信仰の深さが伝わってくる。
<黒部川扇状地湧水群> 2002.8.20
北アルプスを水源とする黒部川は、国土交通省所管の全国一級河川の水質調査では常にトップクラスの清流だ。そして、全長86kmの日本有数の急流河川で、洪水のたびに川筋が変化しながら下流に扇状地を形成してきた。江戸時代には「黒部四十八瀬」といわれるほどの暴れ川だった。その反面、中流部で地中にしみ込んだ伏流水は砂礫層でろ過され、下流の扇状地に豊かな水の恵みをもたらした。環境庁ではこの一帯を名水百選に認定している。その代表とされる「名水」をめぐった。
JR入善駅より日本海めがけて歩くこと40分、国の天然記念物にも指定されている「杉沢の沢スギ」に着いた。昭和44年には45haあったが、圃場整備で水田に変わって、残った2.7haが自然環境保全地域として、天然の沢スギが守られている。
最低限の整備と管理ということで、木道が設けられている。あたりは薄暗い。朽ちた木にはびっしりと苔むして、シダが繁茂している。その中に湧水が湧き出している。温度計で測ってみると、水温14℃、気温21℃で周辺よりかなり涼しい。「湿地や乾燥地には育ちにくく、肥沃な湿り気のある土地によく育つスギが、このような沢地に育つのは、常に水が流れており、その水によって酸素が供給されるからだと考えられている」とパンフレットにある。豊かな湧水がこの沢スギを育ててきたのだ。
生地町のめがけて歩いていく途中の県道沿いで、多くの自噴井を見かけた。入善町高瀬地区の自噴井は、地下36mから地表3mも自噴しているそうで、その水の豊かさがうかがえる。黒部川扇状地湧水公苑には古代ギリシャの神殿風のモニュメントがある。車で通ったついでに水の恵みを受けていく人も見かけた。
杉沢の沢スギ 黒部川扇状地湧水公苑 神明町の共同洗い場
黒部川を越えてしばらくすると、「富山湾が一番美しく見える町」という生地町だ。その町内に民家の屋敷内にある非公開のも含めて、18ヶ所の清水がある。その多くはステンレス製の槽で整備され、地域住民が交代で清掃活動をして清水を守っている。槽にはスイカやペットボトルなどが冷やされていた。水を汲んでいく人も多い。軒もあって、子供たちの遊び場にもなっている。
「弘法の清水」と呼ばれるのが三ヶ所もあって、御大師様への信仰がうかがえる。パンフレットには「同じ伏流水なのに一ヶ所として同じ味がしません」とあったが、残念ながら、私にはわからなかった。まだまだ「名水めぐり」不足だろうか。でも水はさっぱりとしていた。
そして不思議なことに、清水は海岸と反対方向に流れている。湧水のきれいな水にしか棲まないトミヨがいる背戸川に流れ込んでいるのだ。かつてはその川底からも豊富な湧水があったそうだ。
黒部市にはこのような自噴泉が600もあるそうだ。その多くは地下30mほどの被圧水層の地下水、家庭の井戸はもう少し浅い自由水を水源にしているという。その井戸の水位が低下するという事態が起こった。1994年2月28日、黒部川上流の出し平ダムに溜まった土砂を試験的に流した結果、黒部川河口沿岸が黒いヘドロで埋まった。そして川底に溜まったヘドロは礫層を目詰まりさせて、伏流水が減ったためと考えられている。
日本一の黒部ダムをはじめとして、黒部川の急流を利用した電源開発のために次々とダムが造られた。その結果、海への土砂の供給が減り、海岸はどんどん浸食されているという。昭和55年、入善町吉原沖の水深20mから40mの海底で、世界最古となる一万年前の海底林(埋没林)が幅1kmにわたって発見された。土砂の供給が減って洗い流されて、古代の姿を現したのかもしれない。
山から供給されている土砂を人間の都合で止めたり流したりするたびに、自然は多大な影響を受け、人間の生活をも脅かしているのだ。