近畿水めぐりの旅

---

目次

<港町・室津と山陽電鉄水めぐり> 2011.12.7

<嵐山と京の「名水」めぐり> 2011.11.25

<琵琶湖疏水から高瀬川を歩く> 2010.9.19

<夙川から浜辺を歩いて甲子園へ> 2010.3.30

<伊丹の「水」めぐり> 2010.3.12

<武庫川・JR廃線跡を歩いて清荒神、中山寺へ> 2009.12.4

<湖北・長浜の「名水」> 2009.4.25−26

<吉野川の渡しと源龍寺の流し雛> 2009.4.5

<神戸・布引の滝> 2007.12.24

<琵琶湖の「水の町」めぐり> 2007.9.4

<福知山の「堤防まつり」> 2007.8.15

<加古川・闘流灘> 2007.8.3

<京都東山から京阪本線水めぐり> 2003.8.13

<貴船から鞍馬へ> 2003.7.7

<浮島の森(新宮市)・古座川河内祭> 2001.7.24−25

<豊岡・玄武洞とコウノトリの郷公園> 2001.3.27

もどる

---

<港町・室津と山陽電鉄水めぐり> 2011.12.7

山陽電鉄網干駅からバスに乗って約30分で港町・室津に着く。「室の津」は古代から天然の良港として有名だった。行基が摂津と播磨に海上交通の良港として整備した五港(河尻(尼崎)、大輪田(兵庫)、魚住(明石)、韓(的形))の一つだ。三方を山で囲まれており、『播磨風土記』には「風を防ぐこと室のごとし」というところから「室津」と名付けられた。江戸時代には西国からの大名が参勤交代で船から陸へ乗り換える宿場町「海の駅」として栄えた。浄土宗開祖の法然ゆかりの寺宝が残る浄運寺から下った海辺に「貝堀の井戸」がある。法然が寄港した際に飲み水に困った人々のために貝で掘ったと伝えられている。石垣の円筒の底に水を湛えていた。看板の昭和40年代の写真には洗濯している女性の姿がある。淡水の井戸で上水道が敷設されるまで生活用水の水源だった。集落内には覆いのされた古井戸があることから、水源の一つだったことがうかがえる。

DSC_7398 DSC_7378

室津                              貝堀の井戸

亀山駅から西へ約20分歩くと、玉手大歳神社前の道路脇に湧水がある。コンクリートの覆い下から湧出し、玉砂利で敷いた水場が用途別に分かれ、用水路になる。水の流れはなく、少し淀んでいる。集落の北方を走る姫路バイパスができる前には、底から吹き上げるように湧き出していたそうだ。

人丸駅前から北へ住宅街を抜けたところの柿本神社西参道の鳥居前に「亀の水(月照寺の清水)」がある。木柵の中に鎮座する石の亀の口から手水鉢に流れ出ている。人丸山からの湧水で、「播磨三名水」「播磨十水」の一つで、「長寿の水」とも呼ばれている。傍らの石碑には「1719年以前より湧出」とある。

須磨寺駅から須磨寺へ向かう参道沿いに「須磨霊泉」がある。半地下式の半円形の建物の中に、中央の注ぎ口から左右の「上洗」「下洗」の水槽へ流れ出している。少し上った須磨寺公園にある堂谷池周辺から湧いている地下水で、大正13年に作られたという。阪神・淡路大震災の時には水を求めて長い行列が出来たそうだ。須磨寺の仁王門を入ったところにある手水所は「五鈷水」といわれる裏山から湧水だ。その背後には「弘法岩」が鎮座している。駅に戻って南東に歩いた道路沿いに菅原道真ゆかりの「菅の井」がある。竹筒の蓋で中はうかがえない。901(延喜元)年に大宰府に配流された途中、この地で休んだ時に差し出された井戸水だと伝えられている。ゆかりの松や杜若(かきつばた)が保存・復元されている。

DSC_7407 DSC_7415 DSC_7423

玉手大歳神社の湧水       亀の水                   須磨霊泉

須磨寺駅から須磨寺へ向かう参道沿いに「須磨霊泉」がある。半地下式の半円形の建物の中に、中央の注ぎ口から左右の「上洗」「下洗」の水槽へ流れ出している。少し上った須磨寺公園にある堂谷池周辺から湧いている地下水で、大正13年に作られたという。阪神・淡路大震災の時には水を求めて長い行列が出来たそうだ。須磨寺の仁王門を入ったところにある手水所は「五鈷水」といわれる裏山から湧水だ。その背後には「弘法岩」が鎮座している。駅に戻って南東に歩いた道路沿いに菅原道真ゆかりの「菅の井」がある。竹筒の蓋で中はうかがえない。901(延喜元)年に大宰府に配流された途中、この地で休んだ時に差し出された井戸水だと伝えられている。ゆかりの松や杜若(かきつばた)が保存・復元されている。

DSC_7438 DSC_7463

五鈷水                    菅の井

 

<嵐山と京の「名水」めぐり> 2011.11.25

「嵐山」は京都を代表する観光地だ。桂川(大堰(おおい)川)に架かる渡月橋周辺は桜や紅葉の頃はもとより四季それぞれの趣がある。1272年に亀山天皇が御幸橋(法輪寺橋)に月が渡るのを見て、「渡月橋」といわれるようになったそうだ。1606年に豪商・角倉了以が保津川を開削し、堰を整備して渡月橋を現在地に移した。その後、度々の洪水で流失し、平成13年に現在の橋が完成した。少し上流の一ノ井堰から取水された洛西用水はかんがい用水だ。堰の左岸には水流を利用して発電する「ミニ水力発電所」が設置されており、渡月橋の欄干の足元の灯に利用される。上流は「嵐峡」と呼ばれ、左岸に広がる亀山公園の展望台からは渓谷を下る舟や並走するトロッコ列車を眺めることができる。

嵐山から北西に1km歩いたところに芭蕉十哲の一人である向井去来が閑居の跡とされる落柿舎(らくししゃ)の近くに、西行が出家後の草庵の址といわれる「西行井戸」がある。竹筒で蓋のされた井戸跡と歌碑がある。

真言宗大覚寺は嵯峨天皇が離宮として建立した「嵯峨院」を前身としている。高野山を開創した空海は東寺の下賜と恩寵を賜り、その死後に「弘法大師」を贈った。その境内にはゆかりの「閼伽井」がある。離宮「嵯峨院」時代に掘られた。今は一般公開されておらず、阪神大震災の影響で水量が減少して電動ポンプで汲み上げられている。大沢池は周囲約1kmの日本最古の人工の林泉(林や泉水などのある庭園)がある。「嵯峨院」の造営にあたり中国の洞庭湖を模して造られたところから「庭湖」とも呼ばれている。池中に配置される天神島・菊ケ島と庭湖石の二島一石は華道の嵯峨御流の基本型にも通じている。池のほとりには離宮嵯峨院の滝殿庭園内に設けられた「名古曽の滝」跡がある。平成6年から奈良国立文化財研究所が行った発掘調査で、中世の遣水が発見されて復元された。

DSC_7191 DSC_7279 DSC_7299

嵐山              閼伽井           大沢池

焼けずの寺のいわれる本隆寺の本堂前に「千代井」がある。「西陣七名水」の一つだったが、いつしか涸れてしまい、今は埋められて井桁だけだ。1730(享保15)年の西陣一帯を焼き野原にした「西陣焼け」では、この井水を汲んで火を消し、一面の焼け野原の中で寺の本堂だけが残ったそうだ。また無外如大尼(千代野姫)が満月の夜にこの井水を汲んでいた時に桶の底が抜けて月影が水とともに消えたので、仏道に入ったという由緒が残っている。

「西陣の聖天さん」として親しまれている弘法大師創建の雨宝院(西陣聖天)の境内に「染殿井(そめどのい)」がある。軟水は染料を溶かしやすく、染色に適している。「西陣五水(桜井、安居井(あぐい)、千代井、鹿子井(かのこい)」の一つで、西陣は染物の産地として栄えた。

堀川通り沿いの晴明神社に「晴明井」がある。陰陽師安倍晴明の屋敷跡とされ、その頃から湧出し、悪病悪疾が治る霊水といわれる「洛中の名水」の一つだ。取水口の上石には五亡星が模られ、立春に神職が回転させて取水口がその年々の恵方を指す仕組になっている。

DSC_7313 DSC_7315 DSC_7309

千代井           染殿井            晴明井

蹴鞠の神様である鞠精大明神を祀った白峯神宮に手水舎より湧く「飛鳥井」がある。神社の創建前には蹴鞠と和歌の宗家であった公家飛鳥井家の屋敷内に湧出していたものだ。清少納言は『枕草子』で九つの井戸の名水の筆頭格に挙げた。ボーリング調査で地下35mの水脈にあたり、かつての名水が復活した。奥の潜龍社には御神体とされる「潜龍井」がある。「飛鳥井」から50mほどしか離れていないが、深さが違うと全く違った水脈となり、味も温度も異なるそうだ。この水を飲めば、諸々の悪縁を断ち盗難災難除、病気平癒、事業隆昌に霊験あらたかになるそうだ。

近代的なガラス張りのビルの合間に、聖徳太子が創建した頂法寺(六角堂)がある。境内の裏手に「聖徳太子沐浴の古跡」の池とお堂があり、「太子の水」が湧出している。

京都御所の南東にある下御霊神社に「御香水」がある。神社が建つ以前の鎌倉中期には西園寺実氏の常盤井殿の      屋敷内に「常盤井」という名水が湧いていたそうだ。その後、神社の御香水となっていたが、いつしか涸れてしまったという。1992(平成4)年にボーリング調査して水脈にあたり、50年ぶりに復活したという。

DSC_7319 DSC_7340 DSC_7346

飛鳥井                         太子の水                    下御霊神社の御香水

「黒染」で有名な染工場(京都市中京区)の店頭に「柳の水」がある。店の奥にある井戸脇でも水が汲める。1870(明治3)年の創業時に地下約90mから地下水をくみ上げて以来、一度も枯れたことがなく、染色や飲用に利用されている。千利休が茶の湯にも使用したそうで、そばに柳の木を植えて井戸に直射日光が当たるのを避けたともいわれている。この辺りは柳水(りゅうすい)町とよばれ、少し離れた所に本来の「柳の水」があったそうだ。西洞院通りは明治時代まで「西洞院川」で染物業者が多く集まっていた。市電の開通で暗渠化された今では、地下水を汲み上げて染め物が行なわれている。

阪急四条大宮駅から徒歩5分ほどの和菓子の老舗の店頭に「醒ヶ井(佐女牛井(さめがい)の水)が湧出している。「醒ヶ井」は源氏堀川邸の井戸で千利休も愛飲したといわれる「京都三名水」の一つだったが、戦中に取り壊されていつしか涸れてしまったそうだ。それを菓子店がボーリング調査で地下80mから汲み上げた地下水を、かつて湧いていた「醒ヶ井」と同じ名をつけたそうだ。お店のお菓子もこの井戸水を使用しているという。

京都の繁華街の河原町・新京極商店街にある錦天満宮の境内に「御神水」がある。地下30数mから汲み上げられ、水温は年中17〜18℃ほどで、検査の結果、無色透明で飲用にも適しているということだ。豆腐店や漬物店など約130軒の店が連ねる錦市場では、豆腐店や漬物店などは商売に「錦の水」を利用してきた。かつては各店舗が地下10〜15mの井戸を掘っていたが、今では約40mからポンプアップして各店舗に配水しているという。

京都盆地は伏流水や地下水が豊富だ。涸れた名水もあれば、復元した名水もある。そして今も健在の名水もある。

DSC_7335 DSC_7327 DSC_6093

柳の水            醒ヶ井      錦天満宮 2011.8.13

 

琵琶湖疏水から高瀬川を歩く> 2010.9.19

 地下鉄蹴上駅の北方に琵琶湖疏水記念館がある。琵琶湖疏水には1890年に完成した第一疏水と1912年に完成の第二疏水と蹴上から分岐して北白川へ至る疏水分線からなる。滋賀県大津市三保ヶ崎で琵琶湖から取水され、第一疏水は山裾をトンネルと開渠で縫うように流れ、蹴上から鴨川東岸までの開渠は町並みに彩りを添えている。そこから伏見へ再び暗渠となって鴨川運河となる人工河川だ。一部の区間は国の史跡に指定され、疏水百選の一つにもなっている。

疏水は水道用水や水力発電、潅漑用水、工業用水など時代の流れに応じて活用されてきた。水力電力は日本初の電車(京都電気鉄道、現在の京都市電)を走らせたのを始め、工業用動力として使われ京都の近代化に貢献した。水運にも用いられ、琵琶湖と京都、京都と伏見・宇治川を結んだ。36m差のある蹴上から市街地へは船を線路上の台車に載せて10〜15分かけて下ろすインクライン(全長582m)が設置された。昭和23年に水運の消滅に伴って廃止されたが、蹴上では一部の設備が静態保存され、疏水記念館前まで鉄路が残っている。

疏水は明治28(1895)年に平安遷都1100年を記念して創建された平安神宮の神苑の回遊式庭園に導水されている。このほかにも無鄰菴、瓢亭、菊水、何有荘、円山公園をはじめとする東山の庭園に、また京都御所や東本願寺の防火用水としても利用されている。

DSC_3450 DSC_3498 DSC_3558

インクライン             平安神宮の神苑                         高瀬川

東山にある夷川水力発電所は国産のS型チューブラ水車及び同期発電機を使用して300キロワットの発電している。琵琶湖疎水を貯めた街中の小さなダムの水が古びた赤レンガの建物から勢いよく放流されている。京都市民の消費電力からすれば微々たるものだろう。しかし建造された1914年(大正3)の頃は貴重な電力源となり、京都の発展の基礎となった生きた産業文化遺産だ。

高瀬川(たかせがわ)は、江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって開削された運河だ。開削されてから大正9年(1920年)までの約300年間、流量が安定しない鴨川に代わって京都の中心部から伏見と結ぶ水運に用いられた。底が平たく舷側が高い「高瀬舟」が最盛期には百数十艘往来したという。川筋は随所で付け替えられており、現在、鴨川において京都側と伏見側で分断されており、上流側を高瀬川、下流側を東高瀬川(新高瀬川)と呼ばれている。川筋から西へ小規模の流路を掘り込んで船溜所となった「船入」が9か所設けられた。現在、京都市役所の北東方に唯一残っている「一之船入」は史跡指定され、復元された「高瀬舟」がその面影を残している。

 

<夙川から浜辺を歩いて甲子園へ> 2010.3.30

西宮市内の大手酒造会社が点在する町の一角に「宮水発祥之地」の碑がある。灘地方は西・御影・魚崎・西宮・今津郷の「灘五郷」と呼ばれる日本有数の酒どころである。その酒造りに欠かせないのが六甲山系からの伏流水の「宮水」だ。「西宮の水」を略してそう呼ばれるようになった。昭和60年には環境省名水百選の一つに選定された。この東方には大関・白鹿・白鷹の三つの酒造会社の「宮水」を汲み出す敷地を修景整備した「宮水庭園」があり、平成9(1997)年に第2回西宮市都市景観賞に選ばれている。庭園には酒造りの歴史などが書かれた説明板があるが、中に入ることは出来ない。この周辺の酒造会社でも井戸やタンクに「宮水」とも文字があり、各社共有の水であることがうかがえる。

DSC_1783 DSC_1749

宮水庭園                      御前浜

夙川の両岸・南北約2.7kmにわたる桜と松の並木は「日本さくら名所百選」の一つにも選ばれている。浅瀬のコンクリート護岸で、所々水辺に下りて、置き石で対岸へ渡りながら、上流から阪急、JR、阪神の鉄橋を越えて河口へと歩く。河口に広がる御前浜は野鳥や貝、カニ、海藻などが生息する自然の宝庫で、阪神間に残る貴重な砂浜で、県の鳥獣保護区に指定されている。カモメが佇み、水遊びする子供や潮干狩りをする人もいた。浜の東端にある高さ12m、周囲53mの西宮砲台は国の重要文化財に指定されている。幕末に黒船来襲に備えて国防に不安を感じた江戸幕府が要地にあたる大阪湾に砲台を築いた一つで、慶応2(1866)年に完成したものの明治維新で実際に使われることはなかった。

DSC_1727 DSC_1798

夙川           今津灯台

 今津郷を流れる東川、津門川の河口にある今津港のシンボルとして親しまれる今津灯台は、木造の灯篭型の灯台で市の有形重要文化財になっている。今津郷を代表する酒造家である長部家の五代目が文化7(1810)年に酒の積み出し港である今津港の安全を願って私費を投じて建設した。長部家は数隻の樽廻船を所有し、自醸の清酒「万両」を江戸へ運んでいた。明治17(1884)年に「万両」は「大関」へと商標変更され、正式名称は「大関酒造今津灯台」だ。現在の灯台は安政5(1858)年に再建されたものを原型に、昭和59(1984)年に創建当時の姿に復元されたものだ。今も現役として海を守る航路標識とされている。

浜甲子園から鳴尾浜へ続く海岸線は阪神間に唯一残された自然の砂浜・干潟・磯がある貴重な浜で、国の鳥獣保護区や特別保護区に指定されている。砂浜や干潟には渡り鳥や貝などの自然観察ができ、その自然環境を保全する拠点施設として野鳥観察などができる甲子園浜自然環境センターがある。干潮時には約70年前に建てられた阪神パーク(遊園地、水族館等)の跡を見ることができるそうだ。阪神タイガースの本拠地で高校野球のメッカの阪神甲子園球場は、大正13(1924)年の「甲子(きのえね)の年」に完成したために「甲子園」と名づけられた。水はけの良い球場として知られているのも、武庫川の氾濫でできた支流(申川、枝川)を大正時代の治水工事で廃川跡だったためだ。ちなみに古代に難波の対岸の地として「武庫(むこ)」と呼ばれたそうだ。

 

<伊丹の「水」めぐり> 2010.3.12

JR伊丹駅の南方には「不尽の井」がある。小西酒造の蔵跡で酒造用井戸を汲み上げたタンクがある。その裏手に蛇口が設けられているが、利用はできないようだ。JR伊丹駅と阪急伊丹駅を結ぶ歩道のほぼ中間に、「老松丹水」がある。老松酒造の仕込み水とされ、地下95mから汲み上げた「中軟水」だ。湧き水サーベイ関西『湧き水めぐり(3)(関西地学の旅)』によれば、水温20.8℃、(気温29.5℃)、PH6.5、硬度50、砂・礫・粘土などの第四紀の地層ということだ。江戸時代には伊丹の町は酒造業で栄えた。元禄10年には酒造家数が36軒にもなるほどで、樽廻船で江戸に送られた酒は、その味の良さから「伊丹諸白」(いたみもろはく)「丹醸」(たんじょう)などと呼ばれて人気があった。将軍の食卓にものぼった。「老松」の酒は江戸幕府の「官用酒」として「御免酒」と称され、宮中の奉納酒や将軍の御膳酒になったという。しかし江戸末期には200以上あった銘柄の中で、今も市内で使われているのは少数となる一方で、灘などの他産地に受け継がれていった。

DSC_1626 DSC_1639 DSC_1976

不尽の水          老松丹水          水車小屋

伊丹段丘・東縁の自然林の中の緑道を整備した伊丹緑地を歩いて行く。R13を渡ったところの多田街道沿いに水車小屋がある。多田街道都市景観形成道路地区の北村景観形成協議会が手作りで再現したものだ。水路には竹のプランターを設置し、街道に潤いと彩りを添えている。再び、伊丹緑地を歩き、R171を渡ると緑ヶ丘公園に出る。上池の中州には多くの亀が佇み、周辺は梅林だ。伊丹市内で最も古い公園で、下池のほとりには日本建築の粋を集めて建てられた鴻臚館(こうろかん)や、伊丹市の友好都市、中国・佛山市から贈られた東屋や亭(ちん)がある。

DSC_1971 DSC_1960 DSC_1946

    緑ヶ丘公園・下池                 瑞ヶ丘池貯水池                   昆陽池

「たんたん小道」と呼ばれる緑道を歩いていくと、瑞ヶ池公園、昆陽池公園へと至る。瑞ヶ池公園(広さ19.3ha)は桜の名所と知られ、四季折々の花が咲き、幼児らが遊具で遊んでいる。昆陽池公園(広さ27.88ha、そのうち自然池12.5ha、貯水池4.5ha)は市部では珍しい野鳥のオアシスだ。関西屈指の渡り鳥の飛来地で、秋から冬にかけて飛来するカモのほか白鳥がいる。日本列島を模した中州にはカワウがいる。奈良時代の名僧、行基が天平3(731)年に築造したといわれる農業用のため池で、市が昭和43年に一部公園化した。野鳥観察橋が整備され、水鳥にエサをやるための給餌池(きゅうじいけ)を設置して野鳥や水質浄化に配慮されている。各園内の貯水池は伊丹市の「水がめ」になっている。伊丹市では淀川(5万㎥)、猪名川(23000㎥、うち地下水3千㎥)、武庫川(2万㎥)を水源にして千僧浄水場で高度浄水処理している。昆陽池貯水池(貯水量15万㎥)のほか、武庫川の武庫川水源地(取水口)で取水され、猪名川の北村水源地(取水塔)で取水されて瑞ヶ池貯水池(貯水量60万㎥)で貯水している。

 

<武庫川・JR廃線跡を歩いて清荒神、中山寺へ> 2009.12.4

JR福知山線(宝塚線)武田尾駅の前を流れる武庫川の下流へしばらく歩くと、1986年(昭和61年)まであった旧福知山線(宝塚線)の廃線跡(武田尾駅〜生瀬駅間)に出る。枕木や砂利道のほかに赤レンガのトンネルや鉄橋もそのまま残っている。ただ電気が通っていないためトンネル内は真っ暗で懐中電灯は必携だ。武庫川沿いを走っており、切り立った崖や巨岩が転がる渓谷美が楽しめる。その中の一つの「高座岩」には水乞いした竜宮伝説がある。この辺りに計画されていた「武庫川ダム」は建設中止になり、その自然環境は保全された。ゆっくり歩けば2時間ほどの廃線跡はハイキングコースとして知られているが、途中に立つ看板には今もJRの敷地で立ち入り禁止であることを知らせている。転落死亡事故後、安全のためにフェンスが設置されたが、観光客には景観にそぐわないという声があったようだ。

DSC_1221 DSC_1230

廃線跡を過ぎると、交通量の激しいR176に出て、宝塚駅の方へ武庫川沿いを歩く。夏には阪急宝塚駅周辺で花火大会が開催される。また四季折々の花が咲く「花のみち」がある。一段高いのはかつて武庫川の堤防だった名残だ。阪急清荒神駅からの参道を20分ほど歩くと、平安時代初期に宇多天皇の勅願で創建されたと伝えられる清荒神清澄寺(真言三宝宗)だ。「火の神、カマド(台所)の神」を祀った「日本三大荒神」の一つとして知られている。境内には江戸時代初期〜中期にできたといわれる池泉回遊式庭園があり、池泉を中心として石組を配し、滝、亀島、船着石などがあり、鯉や亀などが泳いでいる。鉄斎美術館に向かって右の川に沿って奥へ行くと「龍王滝」がある。高さ5mほどで岩肌を滑るように落ち、不動明王が鎮座している。その水は荒神川となって武庫川に注いでいる。

DSC_1273 DSC_1554

龍王滝            大悲水

山門前駐車場の向かいにある大林寺から中山(標高478m)へ向かう登山道を歩いて1時間ほどに中山寺奥之院がある。山中の静けさが漂う中に厄神明王を祀る本堂の左横に「大悲水」がある。「白鳥石」といわれる苔むした巨岩の前の小堂の下から流れ落ちている。一羽の白鳥がこの岩陰に消えたとの伝説から「白鳥の泉」ともいわれ、厄除けの水として信仰されている。さらにその水は滝場になっている。30分ほど山道を下ると中山寺だ。聖徳太子の創建と伝えられ、安産祈願に全国から腹帯を授かりに来る「安産の寺」としても有名だ。またわが国最初の観音霊場として、西国三十三所観音霊場の第二十四番札所だ。

 

<湖北・長浜の「名水」> 2009.4.25−26

 湖北・長浜は織田信長から賜った領地を豊臣秀吉が開いた城下町だ。その長浜城はJR長浜駅の西側の琵琶湖岸にそびえており、湖岸にはそのゆかりの「太閤井戸」の石碑がある。

DSC_0141 DSC_0117 DSC_0133

太閤井戸             長浜の名水                 長浜八幡宮の御神水

駅の東側は多くの観光客が訪れる「黒壁スクエア」を中心に北国街道の古い町並みが残っている。大手通り商店街の菓子屋の「かどや」の店頭に「長浜の名水」がある。竹の樋から石鉢に絶えることなく清水が流れている。現在、地下200mから汲み上げているそうだ。案内板には、伊吹山系の炭酸カルシウムを多量に含んだ湧水で、飲料水として最適で食品加工に使用されているという。

長浜八幡宮には「御神水」がある。屋形の中に径50cmほどの丸い井形で装飾を施された井筒に水を湛えている。四月に開催されている長浜曳山まつりでは若衆らがこの水で清めて祭りの成功を祈願している。

 

<吉野川の渡しと源流寺の流し雛> 2009.4.5

 近鉄六田駅を出て東へ5分ほど歩いたところに「柳の渡し」の案内板がある。かつては少し上流にあり、北岸に柳があったそうだ。その名残の柳の木と灯篭が残っている。このほかにも上流の「桜の渡し」(現在の桜橋)、下流の「椿の渡し」(現在の椿橋)、「檜の渡し」(千石橋)があり、「吉野川四大渡し」といわれた。

 椿橋の南岸(左岸)の下市町阿知賀瀬の上地区に「やまとの水」に指定される「阿知賀瀬の上湧水」がある。2m四方の石敷きの池に湧出し、その中央部に鎮座する弘法大師像には花が供えられ、地元住民に見守られている。またその下流には39号線沿いに「吉野川湧水」がある。休憩所の傍らの屋形の中で懇々と湧出し、汲みに来る人が多いそうだ。

msotw9_temp0 msotw9_temp0 msotw9_temp0 msotw9_temp0

柳の渡し      阿智賀瀬の上湧水              堰と魚道                   流し雛

 水道橋の少し上流には頑丈な堰と魚道がある。この下市取水口から「吉野川分水」となって、古来から少雨で苦しんできた奈良盆地の水田を潤している。

 梁瀬橋の左岸をさらに下流に歩いていくと、源龍寺(五条市)がある。ここで毎年四月の第一日曜日に流し雛が行われる。午後一時ごろから本殿で人形供養が行われた後、晴れ着の女の子たちが吉野川・中瀬へと向かった。水辺に静かに雛を流すと、手を合わせて祈った。一斉に流された雛は緩やかな流れに乗り、中には石で止まるのもあった。その先には巨岩が転がる急流がある。まるで人生そのもののようだ。

 

<神戸・布引の滝> 2007.12.24

新幹線新神戸駅の裏山を10分ほど登ったところに布引の滝がある。那智の滝、華厳の滝とともに「三大神滝」といわれ、古来から名勝地として多くの和歌に詠われている。今でもハイキングコースとして市民の憩いの場になっており、滝を含めた布引渓流は環境庁(現環境省)の名水百選になっている。

下手から高さ約19mの雌滝、鼓滝、夫婦滝、そして勇壮な高さ約43mの雄滝の四つがある。さらに上流には増水で布引貯水池から越流した時に姿を見せる「五本松かくれ滝」がある。

msotw9_temp0 msotw9_temp0 msotw9_temp0 msotw9_temp0

雌滝           雄滝                  布引貯水池                  新生田川

1900(明治33)年に神戸市の水道給水が始まって以来、布引貯水池の水は今も奥平野浄水場に送水されて神戸市民の水道水源になっている。滝の水量が少ない時は貯水池から放水して滝を再生している。給水開始から今日に残った水道施設は国の重要文化財に指定されている。給水開始に伴い築堤された布引五本松堰堤、雌滝取水堰堤にあるアーチ状の石積みの給水塔、送水管の設置のために架橋されたレンガ積みの布引水路橋(砂子橋)、鉄筋コンクリート二本のアーチ型で大正初期の新技術であった折れ曲がる工夫がなされた谷川橋は、改修しながら当時の面影を残している。

渓谷の趣を残した生田川は新神戸駅下を越えるとその様相は一変する。コンクリート三面張りの人工河川となった新生田川沿いには公園が整備されている。その一角には神戸市と中国・天津市との友好を記念した「百龍嬉水」と称する噴水がある。その心は「世の中が平和で大いに栄え、発展する様子を表している」ということだ。

 

<琵琶湖の「水の町」めぐり> 2007.9.4

湖北・高月町は「槻」(ケヤキの古名)の巨木が多かったことから「高槻」と呼ばれていた。高月町雨森はJR北陸線高月駅から北東に歩いて20分ほどのところにある。集落の東を流れる高時川は普段は水の流れはほとんどなく、広大な河畔林が河川敷に広がっている。町には古い釣瓶井戸が残り、めぐる水路には水車やポットの花で飾られるなど住民の様々な工夫が見られる。荒廃した水路を再生していく中で町づくりが進んできた。「雨森の家並み」は湖国百景とされ、「手づくり郷土賞」にも輝いた。

msotw9_temp0 msotw9_temp0

雨森           「生水の郷」

平成20(2008)年に「平成の名水百選」に選定された湖西・高島市新旭町針江地区は、JR湖西線新旭駅から北東に20分ほど歩いたところにある。「生水(しょうず)の郷」といわれ、比良山系を水源とする安曇川の伏流水の湧水が町をめぐり、その水路に接する家屋の脇には石の丸い井形がある。「外川端(かばた)」と呼ばれている。家屋内に引き込んだ「内川端」の方が多く、町には合わせて100余か所あるそうだ。「内川端」では「壺池」の水槽で野菜洗いをし、果物を冷やすのに利用している。「端池」では食器洗いをし、そこから出る残飯などはコイのエサとなっている。地区住民も総出で水路のゴミ掃除や藻の草刈などを行って水質保全に努めている。また琵琶湖へ注ぐ針江大川はボート遊びなど子供たちの遊び場となっている。町の見学、特に「内川端」は観光案内ボランティアによるガイドなしではできない。観光客の増加や子供が犠牲になる犯罪が増えていることもあるのだろう。住民の平穏な生活を乱さないよう歩く配慮が必要だ。

 

<福知山の「堤防まつり」> 2007.8.15

msotw9_temp0 msotw9_temp0

全国唯一となる堤防を御神体とする堤防神社は、御霊神社境内の一角に鎮座している。福知山盆地を流れる由良川は暮らしに多くの恵みをもたらす一方で、度々洪水を起こしてきた。その苦難から毎年8月15日に堤防の安全を祈願する「堤防まつり」が行われ、その拠り所として昭和59年に建立された。

神事は9時から始まった。その後、神輿を載せて「堤防愛護」「堤防感謝」の幟を掲げた車列が町の巡行に出発した。太鼓を鳴らして河川や堤防の大切さを呼びかける。音無瀬橋の上などで御祓いした。

由良川左岸堤防下にある町屋を活用した福知山市治水記念館は、水害と水防を繰り返してきた歴史を伝えている。昭和28年の洪水は現在の堤防の高さとほぼ同じで、2階上まで水没して、その痕を残した襖が展示されている。

 

<加古川・闘龍灘> 2007.8.3

msotw9_temp0

奥丹波を源とする加古川は、118の支流を集めて東播磨を貫流して瀬戸内海に注いでいる。その中流に「名勝・闘龍灘」がある。JR加古川線滝駅から歩いて約5分のところだ。

川幅50mほどのところに起伏のある奇岩が横たわっている。その合間からの流れは激流となり、あるいは小さな「滝」のようになって流れ落ちている。その様子が「巨龍」の躍動にも似ているところから、古人は「白波雲の如く立ち水声夥し」と評した。水路を引いて人工の滝からアユを飛ばせて仕掛け穴へ落とす筧漁(かけいりょう)は、闘龍灘独特の漁法で夏の風物詩にもなっている。

 

<京都東山から京阪本線水めぐり> 2003.8.13

東山の清水寺は「清水の舞台」で有名だ。高台にある本殿の「舞台」からは京都タワーが遠くに見える。眼下はさすがに「飛び込む」には勇気がいるほどの高さだ。「舞台」の下に三条の水が流れ落ちる「音羽の滝」がある。背後の音羽の山中から年中増減することなく湧出している。不動明王が祀られたこの清浄な水の御利益に与ろうと、お盆で多くの参拝者が並ぶ列に私も加わった。長いひしゃくで受け取った水を、のどが渇いていたのでゴクゴクと一気に飲んだ。さっぱりしておいしかった。

msotw9_temp0 msotw9_temp0 msotw9_temp0

音羽の滝         伏見の御香水           桐原水

京都市南部の伏見は、昔「伏水」といわれた。桃山の丘陵や北山に降った雨水が地下水となって一日数cmから10cmほどの速さでゆっくりと流れ集まってくる。町には至る所にその良水が湧出している。その代表が伏見七名水の一つとされる御香宮神社の本殿横から湧出する「御香水」だ。863年に香りの良い水が境内から湧出して、清和天皇からその名を賜わったという。病気を治したとされる歴史ある名水も明治以降に環境の変化で涸れてしまった。1982(昭和57)年に地下150mから汲み上げて復元され、昭和60年に「伏見の御名水」として環境庁の名水百選に認定された。

伏見はこの豊富な良水を仕込み水にした酒造りで発展してきた。そして宇治川の水を導水した「宇治川派流」は京都と伏見、そして大坂を結ぶ運河で、高瀬舟や三十石舟が行き交った。伏見はその外港として賑わった。坂本竜馬ゆかりの寺田屋は当時の船宿だった。派流沿いに佇む酒蔵がその面影を残している。

宇治市には宇治七名水の一つとされる「桐原水」がある。世界文化遺産にも指定されている宇治上神社境内にある。拝殿は鎌倉時代の作で檜皮葺きの寝殿造りで昭和27年国宝に指定されている。その横にあるお堂の中の石垣から懇々と湧き出している。「生水では飲まないように」と注意書きがあるところから、煮沸すれば十分飲めるのだろう。宇治はお茶の産地で有名だ。この水で煎れればさらにおいしくなるだろう。ほかの七名水の多くは涸れてしまったが、この桐原水はいつまでも絶えることなく飲める水であってほしいものだ。

 

<貴船から鞍馬へ> 2003.7.7

 貴船神社には高龗(おかみ)神が祀られている。龗というのは水が湧き出るところという意で、貴船神社はその信仰の本宮とされている。そこで毎年7月7日に水まつりが行われている。

叡山電鉄貴船口駅から徒歩で20分ぐらいで着いた。すでに「式包丁の儀」が行われていた。神前で生間(いかま)流家元らが包丁と2本の串を使って川魚をさばく神事だ。すでに10時から神事、献茶、舞楽の奉納がされた。

境内には崖から湧き出した神水がある。おみくじを水面に浮かべるとスッと文字が浮かび上がった。案内板には次のことが書かれていた。水の本質を言い当てている。

 

一.   自ら活動して他を働かしむるは水なり

二.   常に自ら進路を求めて止まざるは水なり

三.   自ら清くして他の汚水を洗い清濁併せ寄るるの量あるは水なり

四.   障害に逢い激しくその勢力を百倍するは水なり

五. 洋々として大洋を充たし、発して蒸気となり雲となり雪と変し霰と化し凝つしは玲ろうたる鏡となる而もその性を失わざるは水なり

 

「ものおもへば沢の蛍もわが身より あくがれいづる魂がとぞいる」 『後拾遺和歌集』

平安歌人の和泉式部がこの地を訪れて、貴船川に舞う蛍に仮託して、夫の契りを求めて心が舞っている心情を詠った。そんなところから貴船神社は水の神だけでなく、縁結びの神としても知られている。そばを流れる貴船川は、水も豊富で護岸も自然のままだ。6月中頃には蛍が舞っているそうだ。貴船川は貴船口で鞍馬川と合流し、高瀬川となり鴨川に注いでいく。

msotw9_temp0  msotw9_temp0

水占い                       息継ぎの水

貴船神社から鞍馬寺へ至る山道に「息継ぎの水」がある。その昔、牛若丸(源義経)がこの山中で天狗を相手に武者修行をしているときにのどを潤したという伝説がここに残っている。一口つけるとさっぱりした味で、身体も蘇るようだ。

鞍馬寺から下る参道には、魔王尊石像を祀った祠のある五メートルほどの崖上から一条の滝が流れる「魔王の滝」がある。また多くのコイが泳いでいる「放生池」がある。放生とは、生き物を逃がしてその命を救うこと、とある。

貴船神社から流れてくる貴船川と鞍馬寺から流れる鞍馬川が貴船口で合流し、高瀬川となり鴨川に注いでいく。この豊かな水が淀川を経て私の飲み水になっている。

 

<浮島の森(新宮市)・古座川河内祭> 2001.7.24−25

 新宮市の街中に、長さ85m、幅60m、総面積約4961uの「浮島の森」がある。この島は、底に溜まった腐葉土から発生するメタンガスによって浮いているそうだ。島中の遊歩道から見えるどす黒い沼地には、泡が至る所に見られる。大木の下をジャンプすると心なしか木が揺れ、水辺には小波が打つ。まさしく浮いている証拠だ。昭和2年に国の天然記念物に指定されて以来、歩くには邪魔な倒木がそのままあるように、ここには手付かずの植生が残っている。その数600種に及ぶという。しかし、その周辺は都市化が進み、今では水路を挟んで家屋に囲まれている状態だ。オタマジャクシが多くいた水路は熊野川から導水することで浄化している。せっかくの聖域も家庭からの排水で植生が侵されては何もならない。

余談になるが、熊野地方の名物の「めはり寿司」を食べた。寿司といっても酢飯でなく、しょうゆ味の高菜でおにぎりを巻いたものだ。その昔、熊野へ山仕事に行く人が持参したそうだ。今より目が張るほど大きかったところから「めはり」と名づけられたという。暑い山仕事を終えて、涼しい木陰でこれを食せば、また一層味わい深くなるだろう。

msotw9_temp0  msotw9_temp0

浮島の森     2001.7.24           古座川河内    2001.7.25

JR紀勢線古座駅より歩いて古座川を上ること30分、距離にして2kmの所にある河内橋の少し上流で、毎年7月24日と25日に「河内(こうち)祭」が催される。平成11年には国の重要無形民俗文化財に指定された。祭りの起源は熊野水軍が凱旋帰国したときの名残にあるといわれている。7月25日午前10時、古座川古田の川原に設けられた祭壇で神事が始まった。「河内大明神」と書かれたのぼりや七夕を思わせる飾りで装飾された「上」「中」「下」の三艘の船が太鼓を叩きながら、中州の小さな河内島(清暑島)の周りを回る。河内島自体が河内神社の御神体で対岸の崖上には河内神社の祭壇がある。その崖下は通り道がかなり狭い。舟も慎重に通って行く。今年は雨が少なく、水位が例年より低いそうだ。その反面、水の濁りがなく透明感があってきれいだ。続いて、「赤」「青」「黄」の三艘の舟が同じように周回した。一艘15人ほどの中学生らの舟はエンジンがなく、櫂で漕いでいる。息が合えばかなりのスピードであるが、暑さのためかしんどそうで続かない。河原にいる大人の目が見えないところで休憩しているように見えた。彼らが主役となる、午後のメインイベントの「櫂伝馬競漕」は、残念ながら見ることができなかった。

過疎化や少子化で漕ぎ手の中学生も減ってきているようだ。最近、「十七歳の問題」がいわれているが、こうした祭りを通して連帯感を養われることが少なくなってきているからではなかろうか。地域の伝統を次世代へ継承していくには、豊かな川を保つ自然を継承していくことでもある。大阪という都会に住んでいると、「新しいもの」を求めがちで、「伝統」を守ることを忘れてしまっている。そんなことに気づかせてくれた。

 

<豊岡 玄武洞とコウノトリの郷公園> 2001.3.27

 JR山陰線玄武洞駅を下車して、すぐの所に渡船場がある。対岸の玄武洞までわずか5分だ。お客が来れば出発し、1時間ほどすれば迎えにきてくれる。日本海に注ぐ円山川の水は澄んでいる。水流も穏やかだ。

 小さな丘に玄武洞のほかに、青龍洞、白虎洞、南朱雀洞、北朱雀洞がある。それらは、「160万年前に起こった火山活動でマグマが、山頂から流れ出して、冷え固まる時に、規則正しいきれいな割れ目をつくりだしたもの」で、6000年前に姿を現した。それを人間が切り出したため洞になったということだ。洞によって、規模、形状もまったく異なっている。自然と人が織り成した造形美といえるのかもしれない。

 玄武洞ミュージアムは、私設資料館といった感じで、世界中から多くの鉱石が集められている。光る石なんてものもあった。

            

 豊岡市郊外にあるコウノトリ郷公園では、公開ゾーンと非公開ゾーンがある。公開ゾーンには湿地、川といったビオトープが造られ、学習の場となっている。山間にある非公開ゾーンでコウノトリの飼育、繁殖が行われている。公開ゲージのコウノトリは間近で見ることができたが、なぜか飛ばなかった。自然に還すには、エサ場となる豊かな自然環境とそこで生きられるだけの生活能力がなければならない。それにはまだまだ年月がかかることだろう。

かつて、この地を悠然と飛翔していたという姿をいつの日か見てみたい。 

msotw9_temp0  msotw9_temp0

玄武洞     2001.3.27            コウノトリ郷公園      2001.3.27