<水の「統合」管理>
2002年7月4日、滋賀県琵琶湖研究所で開催されたシンポジウム「水の未来を考える」に参加した。キーワードは「統合」であった。
配布された資料によれば、水資源の統合管理とは「水、土地および関連資源の開発管理を相互に有機的に行い、その結果もたらされる経済・社会的繁栄を、貴重な生態系の持続可能性を損なうことなく、公平な形で最大化する方法」と定義されている。シンポジウムでは次のようなことが話し合われた。
水を巡っての利害関係者が双方向に話し合い、決定していくシステムが重要で、それには法律、経済、それらを決定する政治システムが重要になってくる。その前提として、水は経済的・社会的な「財」であるという認識が不可欠だという。それによって、法による規制や税金、補助金などの経済的手段で規制が可能になるという。また持続可能性を損なわないためには、河川の流域を一つの組織単位にすることだという。日本では国境を跨ぐ河川はないが、ライン川やナイル川などの国際河川では国を越えて調整する組織が必要だということである。そして人、資金、自然を相互に組み合わせることで水資源の「統合」管理が可能になるということだ。
GWP(世界水パートナーシップ)では、水資源統合管理のためのヒントとなる「Tools Box(情報の提供)」がある。(詳しくはWebを御覧下さい)世界水パートナーシップ技術委員会委員長のトリキル・J・クラウセン氏は「琵琶湖をTools Boxにできないか」と提案した。地元の湖沼ネット代表の井出慎司氏からは「大阪などの下流域住民は同じ流域でありながら琵琶湖への関心が薄いのではないか」という意見があった。
身近にある川を舞台に、様々な立場の人が集まって話し合い実践していくことが、水の「統合」管理への道に通じる。
<水の自由化・商品化を考える>
先日、世界水フォーラム・プレシンポジウム「水の自由化・商品化を考える」に参加した。
水道事業の民営化で揺れ動いたボリビアと灌漑用水の改革で受益者負担を強いられたタイからの海外報告と海外の水道事業者からの報告もあった。
かいつまんで言うと、住民に説明することなく、民営化を導入し、住民の負担が重くなったことで反発が大きくなったということだ。これに対して水道事業者は「民営化で評判を落とさないよう気を付けるようになり、そのノウハウもあるから水道の質が良くなる」という。日本でも水道事業の一部を民営化した自治体もある。
日本では水はすでに商品だ。井戸のある家庭もあろうが、大多数は公共水道なしの生活は考えられない。河川から「自由」に水を引くと河川法違反に問われる。そうなったのは明治時代に旧河川法が施行されてからだ。それまでは地域独自の管理システムがあった。それ以降は国が一元的に管理するようになった。
事象は様々ではあるが、現在それが世界中で起こっている。21世紀は水の世紀と言われ、水不足が予想されている。そのためには水の効率的な使用が不可欠という。その方法として、「自由」に使用していた水を第三者の管理に委ね、その費用を受益者負担にするというのだ。言い換えれば、これまでの使用者から水を「自由」にし、「商品」とすれば、市場システムで効率的になるというのだ。
来年3月に開催される第三回世界水フォーラムでは、それが最大のテーマになるだろう。推進する水道事業者と不利益をこうむる住民との対立も予想される。
今回のプレ・フォーラムでは、水は電気やガスなどと違って商品化にはむかない、という海外からのゲストの意見もあった。人間は水なくしては生活できない。それを商品化することで、そこに水があっても飲むに飲めない事態になる不安があるというのだ。
誰かれ区別なく、水の安定供給と質の安全性が保障されるシステムであれば、民営か否か問わず、形態はどうでもいいだろう。それにはまず公正さと住民への説明なくしては語れない。
(2002.3.29)
<「水は金のある方へ流れる」>
10月7日、NHKスペシャル「ウォーター・ビジネス 水を金に変える男」を見た。水をボトルウォーターにして、世界各地を舞台に市場を席巻させていく男の姿を描いていた。買える人と買えない人との格差が拡大している現状にその男は答える。「ボトルウォーターを貧しい人たちが買えないからといって、それは我々の責任ではありません。我々の業界だけに問題の解決を求められてもそれは無理なことです」。それはその通りだ。ビジネスなのだから。
その翌日、京都で「世界水フォーラム市民ネットワーク」の結成シンポジウムが開催された。そのスライドショーの中で「水は金のある方へ流れる」というメッセージがあった。経済がグローバル化していけば、国際間で水が移動していくことになる。
そこでどうするのか。2003年3月、琵琶湖・淀川水系を舞台に大阪・京都・滋賀で「第三回世界水フォーラム」が開催される予定だ。これまで三年ごとに開催されている。おそらく世界各地の現状報告や多くの意見が寄せられるだろう。それでどうするのか。先ほどのシンポジウムに参加して、その答えは「法」というのが私の実感だった。
高度成長期、地下水の大量の汲み上げは地盤沈下をもたらした。条例などの法的規制で回復した。私たちの飲み水は長年の慣行の水利権に加えて新規の水利権を開発しながら、その水源が守られて来た。私たちの水は法律で守られているといってもいい。
世界に目を向ければ、国境を越えて流れる上流と下流とで水を巡る紛争が起こっている。先の番組では「水が一握りの個人や巨大資本のもとへ流れていく」現状が伝えられていた。経済のグローバル化が止められないものならば、その法律もグローバル化していくことが必要ではないか。そこに「世界水フォーラム」の開催の意義があろう。
ゆめゆめ水不足に苦しむ人の姿が「水を金に変える男」たちの広告・宣伝に利用されることのないように。
(2001.10.12)
<水問題とは何だろう>
人やあらゆる生物に必要不可欠の「水」が、この21世紀には世界的な問題になるであろうと予想されている。世界水ビジョンによれば、「開発途上国を中心とする世界各地で、水不足、水質汚染、洪水被害の増大などの水問題が発生しており、これに起因する食糧難、伝染病の発生などその影響はますます広がっています」と報告されている。20世紀には石油を巡る争いが頻発し、経済に多大な影響を与えた。21世紀には「水」がそれになるというのだ。
雨に恵まれた日本は、世界水ビジョンの予測では危険度は低いと見られている。とりわけ琵琶湖の恩恵を受けている大阪では危機感が薄いようである。しかし、昨年の東海地方を襲った豪雨では多大な洪水被害をもたらせた。局地的な豪雨は今後、日本各地で頻発するだろうと予測されている。
あたりまえに水道の蛇口をひねって水を使用しているが、その中身は私たちの健康に危ういものとなってきている。水を浄化する際の塩素使用、塩素殺菌では死滅しないクリプトスポリジウムの存在、蛇口に到達するまでの水道管での汚染。また、山間地にある廃棄物施設による水源地の汚染、工場からの地下水汚染。水が豊富にあっても飲めない状態になるかも知れない。そうなれば途端に水不足になる。
私達が使った水は下水処理場を通して浄化され、川へ海へと還っていく。しかし下水処理率100%の時代はいつになることやら。またそうなっても処理能力には限界がある。その結果川や海が汚染されていく。食用にされる天然の川魚が減ったように、内湾の魚が食べられなくなれば、食料自給率は低下する一因となる。
川は大地の血脈のように巡っている。生活用水だけでなく、農業、漁業、工業へと様々に利用されている水資源を支えるために、川をダムや堰でせき止めた。また洪水を防ぐために川をコンクリートの護岸で覆った。そこからホタルなどの生物が消えていった。最近になって調査してみれば、メダカが小川から消えようとしていたことがわかった。それでようやくコンクリート護岸から多自然型護岸へと見直されて始めた。
ゆったりと時には荒々しく流れる川は、人の生活に豊かさをもたらせる。散策しながらふと物思いにふけったり、川辺で水遊びをしたり。川は経済的価値では図れないものをもたらすのだ。「水ガキ」(川で遊ぶ子供たち)が少なくなったといわれている。そんな風景を取り戻すことも必要なことだ。それはとりもなおさず、安心できる川の証なのだから。川の貧困は精神の貧困をももたらせるのではなかろうか。
水にはらむ問題は実に様々ある。21世紀の日本の「水」の危機はいろんな形で現われてくるだろう。そんなことを一つずつ考えていきたい。