佐保川
(氷室神社の献氷祭)
氷柱 2005.5.1
鳥居をくぐるとスイレンが育つ鏡池がある。手水鉢の横には「鷹乃井」と刻印のある古井戸がある。社殿の周囲の建物に入るとどことなくヒンヤリとしている。毎年5月1日に全国の製氷業者、氷小売業者が参列する「献氷祭」が営まれる。
神社の発行する『氷室神社由緒』によれば、和銅3年(710)に平城京遷都に伴って吉城川の上流の春日山山麓に氷室をつくって氷室明神を祀ったのが始まりとされる。その翌年から献氷の勅祭が始まり、毎年4月から9月まで朝廷へ献上された。貞観2年に本殿の裏には吉城川が流れている。現在地へ遷座された。平安遷都で途絶えた祭事を明治45年に復興し、昭和36年には故実に則ったものに再興された、ということだ。
神殿前には海や川の幸であるタイとコイを3匹ずつ閉じ込めた縦1m、重さ135kg足らずの「鯉の滝のぼり」の氷柱が奉納され、参道には涼しげな六角の花氷や氷柱が立っている。神事は午前11時に始まった。祝詞が奏上され神前に供物などが奉納され、拝殿では神社伝来の舞楽が奉納された。宮司さんの話によると、夏の商売繁盛の祈願もあるが、かつては今夏の天候を占う自然のバロメーターでもあったそうだ。
(東大寺の「お水取り」と若狭の「お水送り」)
閼伽井 2002.3.15 若狭の「お水送り」 2002.3.2
奈良に春を呼ぶといわれる「お水取り」は東大寺二月堂が舞台となる。その前にある閼伽井(若狭井)から汲まれた水が供えられる。3月2日に営まれる若狭の「お水送り」で流された水が一週間してこの井戸に流れてくると伝えられている。
(春日大社の御田植祭)
御田植祭 2002.3.15
「みかんこ」(巫女)が八乙女を演じて、拝殿前の「神田」に早苗を植えた。
(春日若宮のおん祭の御湯立式)
御湯立式 2004.12.15
1136年以来の絶えることなく続いてきた「春日若宮おん祭」の始まりの神事として行われる「御湯立式」(みゆたてしき)は、明治以降途絶えていたが再興され、12月15日に1日に3回、春日大社大宿所で営まれる。
巫女が神殿を前にして祝詞をあげながら御湯に酒を注ぎ、白米や玄米や丸く固めたはったい粉を入れて御湯を清めていく。そして両手に持った熊笹を沸き立った釜に入れ、両腕を勢い良く回すと湯気が円く立ち残り、飛沫を飛ばしてお祓いする。
(興福寺の放生会)
毎年4月17日、興福寺一言観音堂で放生会(ほうじょうえ)が行われる。仏教の生物を慈しむ考えに基づいて、コイが放流される。13時に始まった法要のあと、桶(奉納料 5000円)に入った10cmほどのコイ十数匹を猿沢池に次々と放した。
(采女祭)
仲秋の名月の日に行われる「采女(めのと)祭」は、猿沢池の北西に鎮座している采女神社の例祭だ。この神社は奈良時代に帝の寵愛が衰えたことを嘆いて猿沢池に入水した采女の霊が祀られていることから「縁むすびの神」とされている。
花扇(はなおうぎ)奉納行列の巡行、神事のあと「管弦船の儀」が19時から始まった。竜の首を模った船首の管弦船2隻の船上で雅楽を奏でながら、流し灯籠の間をぬって猿沢池をゆっくりと2周回った。興福寺の五重塔もライトアップされていて、大変優雅な雰囲気が漂っていた。
(瑜伽(ゆうが)神社の御湯立式)
御湯立式 2005.1.1
毎年元日に行われる。古代の裁判である熱湯に手を入れて真偽を下す「盟探湯」(くがたち)に由来し、神楽の舞う神事になったといわれている。
神事は11時から始まった。瑜伽山の高台にある本殿横にある「飛鳥乃御井」から汲まれた水があらかじめ釜に沸いていた。祝詞の後、御湯巫女(みゆめみこ)が神楽を舞いながら釜の御湯に米、塩、酒を注いでいく。それをかき混ぜて桶に汲まれた御湯が神前に供えられた。そして湯気の立った釜の上で両手に持った笹で煽り立てるようにして飛沫が飛び散った。これを浴びると無病息災になるといわれている。
(手向山(たむけやま)八幡宮の御田植祭)
神殿前の拝殿を「田」と見立てて、翁面の田主と牛童が登場する謡物の形式をした神事である。翁面の田主が祝詞を奉げながらクワ入れ、牛使い、土ならし、籾(籾、餅、豆)まき、鋤と一連の農作業の所作をする。牛使いの儀では「モウモウ」と鳴く牛面の男児が可愛らしい。また三人の女児の早乙女が神木の苗を供えた。最後は田主が団扇を扇いで豊作を祝った。
(倭文神社の蛇祭り)
巡行 2005.10.10 「相撲」の神事
佐保川と秋篠川の合流地に架かる打合橋から東に約10分歩くと、倭文(しずり)神社(
10日午後1時半過ぎ、町の巡行が始まった。一行の中には12体の「人形」とサトイモの茎で造られた「蛇」を抱えていく。「人形」は8日早朝に搗かれた餅の「服」と五色の御幣を差し込んで着飾り、半分に割ったサトイモの根元に人の顔が描かれている。竹笹や青竹を束ねた長さ約10m、太さ約1mほどもある大松明に赤頭巾を被った男性が乗り、数人で抱えていく。そして子供が乗った山車が拍子木に合わせていく。
境内に戻ると「人形」や「蛇」は本殿に供えられ、大松明は焚かれた。そして拝殿前に敷かれたムシロの上で「相撲」の神事が行われた。幼児、小学生、青年の組の勝負が2回行われた。子供や小学生の組は仕切り役の「行事」の文句に合わせて行われた。青年の組は太刀と廻しの上に置かれた扇子の日の丸に矢が突き刺さった方が勝ちになる。
その昔、人に害を与えて暴れまわった大蛇を季源大師が退治したという伝説がある。その大蛇を祀ったのが倭文神社の横にある蛇塚社だ。倭文神社には「相撲」の神が祀られている。暴れまわる蛇を退治する勇猛さを競ったのであろう。蛇は水神の化身とされ、暴れる蛇は暴れ川を意味し、佐保川に近い集落の水難防止を祈願しているのであろう。
(菅原天満宮のおんだ祭)
2007.2.25
午後2時から神事が始まった。祝詞の後、5m四方に注連縄を張った「田」に面を被った田夫が登場した。鍬入れの所作に続いて、牛面を被った子どもが演じる「牛」を連れて鍬や鋤入れをし、時折暴れたりする。さらに田夫は田ならし、天秤を担いで柄杓で肥え撒き、「福の種」(モミ種)蒔き、草抜きなど一連の農作業の所作を口上を間に挟んで行った。神前の盛砂には松苗が植えられ、最後に氏子らが松苗を参拝者に撒いて神事は終わった。
東へ約100m離れた街角には菅原天満宮遺跡天神掘がある。菅原道真公の産湯の池と伝えられている小さな池の中には、渡り橋のある中島に碑と梅の木がある。