<「中甚兵衛」をたどる>

 

大和川治水公園の中甚兵衛像

新大和川を今も見守っているようだ。

サンヒル柏原

高台にあり、大和川や河内平野、そして南河内、堺の方まで見渡せる。

特に夕陽がきれいだ。

  堅下南小学校付近

小さな養殖池を通り過ぎると河内平野が一望できる。

清浄泉(太平寺2丁目)

弘法大師ゆかりの水で、石(いわ)神社本殿の崖下にある。

瑠璃光寺(山ノ井町)

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『河内名所図会』に「清冷甘味なり。眼疾のもの濯ば善治するの験があり」と記される閼伽井(山ノ井)がある。

弘法大師が澱んだ泉水に杖を突き立てると清水が湧出した、と伝えられている。

石積みの谷川の脇で草が繁茂して澱んでいる。

恩智神社

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三代実録によれば下水分社(しものみくまりしゃ)とされた。

境内の社務所裏に閼伽井戸(清明水)がある。

弘法大師が錫杖で突くと霊水が湧き出したという伝説が残り、難病を治すといわれた。

「水が濁ると翌日は雨になり、百姓はそれを見て農作業をした不思議な水」という。

郡川のホタルの里

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両面コンクリート護岸の川幅2mほど川だ。

街道から合流する恩智川にかけて市民団体が「ホタルの里」をつくっている。

木炭浄化施設で水質浄化して川床を土砂で曲流させている。

方守(ほうまもり)神社

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横小路南から西に入った所に小さなお堂がある。

昔、雨乞いの神事が行われていたそうだ。

恩智川治水緑地

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恩智川の増水で一時貯留機能をもっている。

弥生橋下の崖面でカワセミの営巣が確認され、冬鳥が羽根を休めている。

この周辺は池島・福万寺遺跡で弥生時代前期には稲作が営まれていたことがわかった。

また平安期の条里制も残っていた。

玉串橋

柏原から流れてきた玉串川はここで第二寝屋川へ注ぐ。

農繁期になると用水の一部がさらに北部へと流れるが、暗渠化して流れはわかりにくい。

市場船着場跡

近鉄玉串バス停付近に案内板がある。

かつて「市場」と呼ばれ、旧大和川流域の物産を集めた「市」が開催されていた。

旧玉串川分岐点(花園郵便局前)

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土地区画整理した水利組合の記念碑がある。

かつて玉串川は川幅約150mあり、

この付近で北東に吉田川、北西に菱江川に分岐していた。

付け替えで新田開発され、その一部が現在の川中、菱屋東の街名になっている。

旧吉田川の堤防跡の道

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近鉄花園ラグビー場へと続く細い道は堤防跡で周囲より少し高い。

村を水害から守ったといわれる小さな神社、普明寺の前に井戸跡がある。

花園多目的遊水地

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近鉄花園ラグビー場の隣にある。

恩智川の増水で一時貯留機能をもつ遊水地だ。

今米公園・中甚兵衛の記念碑

「贈従五位中甚兵衛翁碑」と記される石碑は、大正5年に大阪府知事から贈られた。

川中家と屋敷林

大阪みどりの百選に指定され、今米緑地保全地区になっている。

昨年10月に設置された東大阪市の「川中家と屋敷林」の案内板には「甚兵衛の生家とも伝えられています」と記されている。

  「中家屋敷跡」の碑(今米1-10

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「明治末まで、ここに甚兵衛をはじめ中家代々の屋敷がありました。

屋敷は東西二十五間、南北三十間あり、石垣で囲まれていました」

と記された碑が平成17年に建てられた。

道路より50cmほど高い敷地がそれを偲ばせる。

 

(ポイント)

京都の石清水八幡宮から高野山へ向かう参詣道の東高野街道の一部と旧吉田川跡を歩くコースだ。

歩きながら「中甚兵衛」の歴史に思いを巡らしてはいかが。

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